引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

  

9.魔法がない世界の住人と、引き篭り魔法使いの事情5


『間違いねぇ。あいつは、『アニム』だ』

 真っ白になった視界。やけに遠くから聞こえてくる師匠の声が、脳を揺らします。顔が見えなくとも、胸が締め付けられるような感情を、苦しいほど伝えてきます。
 召喚される前、私には日本人らしい名前がついていました。お父さんとお母さん、それにおばあちゃんが真剣に考えてくれた、名前です。
 それと同じくらい、「アニム」は師匠から贈ってもらった、大切な名前です。そう、私だけの名前なはず、なのに……。まだ、名前を貰っていない私を「アニム」と呼ぶのは何故?

『『アニム』だって?! いや、記憶を辿れば確かに……瞳に面影を感じ取れる気もするけれど。髪の長さはともかくさ、髪色も雰囲気も違わないかい?』

 今度は、センさんの困惑した声が聞こえてきました。魔法映像に、私が映っているのでしょう。指差し確認しているような、口ぶりです。
 だれが、だれに似ているの?
 真っ白だった世界が、暗転していきます。絶望を色にすると、こんな感じなんでしょうか。吐き気もおさまりません。
 瞼を必死で擦って、頭を振って、視界を元に戻そうと試みます。

「ししょー、どこ?」

 呟きが背中を押したのか、徐々に魔法陣の光が見えるようになってきます。
 そして、目に入ってきたのは、緩くかかったウェーブの茶髪が、頬や額にくっついている自分の姿でした。びっしょりと、汗に濡れています。

「面影って、どういう意味? 私は――」

 言いかけて、それ以上先は言葉になりませんでした。考えが形になってしまうことを、全身が拒否しているようです。
 喉元に手を当てても、掠れた息が出るだけです。
 さびた機械のような動きで、師匠に視線を移します。師匠は相変わらず、魔法映像を食い入るように見ていました。

「ししょー、ねぇ、ししょーってば」
 
 巨大な魔法映像いっぱいに映っているのは、間違いなく私です。必死の形相で、華菜の手を引いています。ちょうど、広い山道に飛び出したところでした。足を滑らせて膝をついた私を、雪夜が引っ張りあげてくれています。お父さんとお母さんも追いついてきて、5人で道を転げるように下っていきます。
 召喚獣は声が出せないので、今の映像ではどのくらい離れた位置にいるのかは、知り得ませんでした。

「――っ。そう、だ。あの時、召喚獣、だれかの果物ナイフみたいなの刺さって、もがいてたんだ。周りの樹、なぎ倒してた」

 痛んだ頭を抑えると、また少し過去を思い出しました。最初は断片的だった場面が、どんどん繋がっていきます。
 召喚獣は鳴かなかった。だから、どのくらい後ろから追ってきているのかを把握出来なくて、余計に焦っていたんだっけ。
 聞こえてきたのは、紅葉を散らすように折れる樹と、絹を裂くような断末魔と、邪魔だと互いに罵声を浴びせ合っている人々の声。

「それで、あの後……あの後を思い出さないと、いけない。でも……こわい?」

 正直、自分の中に浮かんできている感情の種類が、わかりません。混乱しすぎて、今、私は悲しいのか、怯えているのか、何も感じていないのか。見当がつきません。
 映像の向こう側で、大勢の人が逃げ惑っているのに。頭がぼんやりとして、ひと事のように見つめているだけです。
 
「あれ、樹が倒れる音、やんだ」

 震える膝を叱咤(しった)して、よろよろと立ち上がります。
 魔法映像には、召喚獣が大量の花びらに包み込まれているのが映っていました。花びらたちは、卵のような形で半透明です。
 召喚獣を攻撃しているのではなく、優しい光で癒しているようです。実際、召喚獣の真っ赤に腫れ上がった皮膚からは、傷が消えていきます。

「肌撫でて、召喚獣に理性取り戻せって、落ち着かせてるみたい」

 元の世界の人々は、目の前で起こっている現象に、思考がついていかないのでしょう。逃げるのも忘れて、地面に足を縫い付けられたように佇んでいます。

「知らなかった。私、召喚獣から離れたあと、こんな風だったなんて。知ってたら、もっと冷静、動けてたのかな」
 
 ただ逃げ惑うのではなく。もしかしたら、だれか一人くらい、助けられていた?
 そう考えた瞬間。中年の男性が、傷を癒していく召喚獣を指差して『やばいぞ!』と叫びました。男性のひっくり返った声を合図に、再び高い声をあげて逃げ始めた人々。逃げ際に、召喚獣に向かって、石やリュックを投げつけていく人も大勢いました。
 花びらたちは物理的なバリケードになれないようです。召喚獣の、皮が破けて剥き出しになっている部分にも容赦なくぶつけられています。その度、召喚獣は大きな体をうねり、感情のないはずの瞳から真珠のようなモノを落としました。

「そうだ。私の世界の人から見たら、召喚獣元気になる、もっと襲ってくる考えて当然」

 冷たい空気を揺らしている魔法陣の音が、ことさら大きくなりました。
 震える手で口元を覆います。私は、やっぱり変わった。お母さんから「魔法使い」という単語を聞いた時の違和感が、蘇ってきました。
 私は、根拠のない確信で、自分は変わらないと思っていました。けれど、変わらないはずがないんですよね。違う世界にいるのですから

「私の世界、こっちの世界、一緒な物事も多い。だから、余計、鈍ってたのかな。私、考えの基準、完全にこっち側なってる」

 正直、その事実が良いのか悪いのかは、判断がつきません。むしろ、単純に良し悪しでなどに分けられないとも、思えます。
 ダメです。頭がぼうっとして、思考が纏まりません。

――アニムが、こちらの世界に馴染んできているということでしょう? こちらの世界で生きる者なのですもの。思考の基準が、こちらの世界の常識になるのは、当然ではないかしら?――

 アニムと呼ばれて、体が大げさなほど跳ね上がりました。
 続いたカローラさんの言葉に、今度は心臓が騒ぎ始めました。意識の中なはずなのに、心臓が体から飛び出てきそうなくらい跳ねて、痛いです。全身が沸騰(ふっとう)しそうな勢いで血が巡っていきます。
 
「こっちの、世界で、生きる者?」
――えぇ。アニムはこちらの世界で生きているじゃない。それに、これからも『あの子』の傍にいたいのでしょう? もう、こちらの世界のヒトじゃないの。だから、前の世界から切り離されていくのに、問題はないじゃない――

 自分でも驚くほど、目が開きました。魔法で空気が揺れているのか、それとも自分の身体が震えているのか。わかりません。
 呼吸が止まりそうです。
 こちらの世界に存在が馴染んできていると言われる度、間違いなく、私は喜んでいました。師匠に、魂と身体の存在固定が安定してきたと教えられて、とても嬉しかったです。
 言い方ひとつで、ここまで印象が変わるものなんでしょうか。師匠や皆さんから聞いた時は、前向きな感情しか浮かびませんでした。頬が熱を持ちました。
 でも、たった今、カローラさんにかけられた言葉は、とても冷たく感じられました。針のむしろになっているようです。頷かないことは罪なのだと、ひどく責めてられいる気分になります。

「切り、離される?」

 その一言が、堪らなく重く伸し掛ってきました。頭の中で繰り返される、セリフ。切り離されるって、どういう意味でしょう。
 いえ。理解は出来ているのに、納得したくない自分がいます。私が、甘いの? 師匠が大好きなのは本当です。けれど、それが自分の世界自体を捨てるなんて発想には、繋がりもしませんでした。
 でも、そうですよね。師匠の傍にいたいと願うことは、つまり、そういう意味なのでしょう。

――そう。この世界で生きていくのに必要のないものは、消えてしまっても、差し支えないでしょう? むしろ、余計な情報なんて、ない方が良いわ――

 でも、でも! 私が生まれ育った世界だって大切で、そこで育ったから今の私もあって。大切以前に、私の一部です。
 師匠だって、元の世界とこっちの世界の特徴を併せた料理を、喜んでくれるし! 元の世界だって、この世界だって、どっちも好きで、比べられなくて。
 でも……改めて考えると、私はこっちの世界を、全然知らないんですよね。結界内と師匠の元を訪れる人たちしか、知らない。なのに、この世界を好きだと思うのは、浅はかなのでしょうか。
 ただ師匠を好きだという感情だけで、こんな日常が続けば良いと、この世界で生きる努力だけをしてきた私は、愚かだった? もっと、必死になって、帰る術を探すべきだった? でも、どうしてか、帰りたいという意識自体が薄くって。いいえ。そんなのだって、言い訳でしかない。
 あぁ、もう!

「消えて、いいわけないよ」

 ぽつりと涙声で落とされた呟き。魔法陣が発する音に潰されそうなくらい、小さい声でした。
 横からは、瞼を閉じて詠唱を続けている師匠の声が、耳を撫でてきます。
 それだけは、譲れないです。今の私があるのは、これまで生きてきた道があるからです。それって、どの世界とか関係ないと思うのです。
 ぐっと口元を引き締めて、カローラさんを見上げます。無意識に睨む形になっていたのかもしれません。カローラさんと向き合った瞬間、ぎくりと全身が強張りました。カローラさんが纏う空気が、明らかにさっきまでと違いました。とても張り詰めて、冷たささえ感じられました。

――そう……まだ、早かったかしら。あなたに一刻も早く現実を受け止めてもらうため、だれにでも甘い本体と案内役を代わったというのに。あなたの想いの深さは、まだ『あの子』に追いついていなかったのかしらね? けれど、あなたは知るべきよ。『あの子』が、どれだけ『アニム』を待っていたかを――

 とても平坦な声でした。淡々とした調子です。
 急変したカローラさんの様子に、背筋が凍りつきました。こわい。代わったとは、なんでしょうか。そう言えば、眠る前に聞いた声は、カローラさんよりも柔らかいモノでしたっけ。
 一歩後ずさりするのと同時、カローラさんは眩い光を放ち、姿を消してしまいました。

「えっ?! カローラさん?!」

 大慌てで周囲をうろうろしますが、カローラさんは跡形もなく姿を消してしまいました。
 これって、ちゃんと目が覚めるんでしょうか?! こんな混乱状態がエンドレスで続いたら、私、精神的に死んじゃう気がするんですけど!
 
「しん……じゃう?」

 浮かんだ単語に、足がぴたりと止まりました。
 吐き出された息は、相変わらず白いです。ずっと震え続けている腕を強く掴みますが、寒さも震えも、どうにもなりませんでした。
 どうしていいのかわからず、詠唱を続け花びらに魔力を送っている、師匠とセンさんを見つめることしか出来ません。
 やがて、師匠がゆっくりと瞼を開きました。綺麗なアイスブルーの瞳が揺れています。

『よし。これで召喚獣の捕獲は、ひとまず落ち着いたな。召喚獣が手にかけちまった奴らには、悪かったが。これ以上の被害は回避出来そうだ』
『そうだね。召喚魔法の術転送が出来る状態にまでなれば、すぐにでも召喚獣を戻せるね』

 術は順調なようです。良かった。これ以上、被害者を出さないで済むのでしょうか。
 ほっと胸を撫でおろしたものの、すぐさま有り得ないことだと頭を振ります。あくまでも、これは過去の出来事です。師匠が術を失敗しないと、私は巻き込まれないんですもの。
 肩の力を抜いている師匠とセンさんは、魔法で固めている空間に腰掛けました。

『ところで、ウィータ。『アニム』のことだけれど……』
『確かに、魔法映像に映ったのは、オレたちが知っている『アニム』とは違った。けど、間違いねぇ。オレにはわかる』

 確信に満ちた声色です。
 師匠のあまりに確固たる様子に、センさんが長い溜息を返しました。センさんの顔が白い息に隠れてしまうと思われるほど、大きな溜息です。

『ウィータ落ち着いてよ。容姿だけなら、少しくらい似ている人間なんて、そこら中の次元にいても可笑しくない。魂の旋律にも触れていない、というか魔力が届きにくい現状では触れられないだろう? 確証を持たずに断言するなんて、君らしくもない』
『うっせぇ。オレは昔、『あいつ』の魂にも触れてるんだ。花びらをいくつか『アニム』に触れさせたが、魂の旋律は同じだった』
『……いつの間に。まったく、百何十年の執念て、恐ろしいよね』

 師匠が声を荒げると、センさんは変な方向で感心したように両手をあげました。驚きを通り越して、呆れているように見えます。そのまま、センさんは口を開けて、しばらくの間、ほうけていました。
 師匠は、そんな呆然としているセンさんにお構いなく、嬉々として呪文を口ずさみ始めます。ついさっきまでの、切羽詰った感じとは全然違って、リズムすら感じられる調子です。
 メインの魔法映像とは別に、小さな画面が現れました。そこには、息を切らして、未だに走っている私が映し出されています。
 センさんから『通じにくい回路の無駄遣いはやめなよ』と注意されましたが、師匠はまるっきり無視しています。回路って、インターネットみたいです。
 脱力していたセンさんは、額にかかっていた長い前髪をゆっくりと払いのけました。

『まぁ、ウィータと『アニム』の関係、可能性としては考えていたけれど』
『んだよ?』

 詠唱の区切りだったのでしょう。センさんの含みのある声色に、師匠は敏感に反応しました。聞く耳半分という様子ではなく、上半身の向きを変えてです。
 それだけ、師匠が執着しているヒトは、心を大きく占めているという現実を突きつけてきます。

『もしかしてさ。あの別れの時には、既に関係持っていたりした?』

 からかいとも真剣とも取れる声です。センさんは大きな白いマントから腕を出し、長い後ろ髪をいじっています。
 今度は、師匠が息を飲みました。長い前髪から、わずかにだけ見えている目元を、薄い赤に染めています。

『――っ。そこまでは、手、だしてねぇよ』
『へー。そこまでは、ねぇ。じゃあ、一体、どこまでは手を出したのかな。別段、意外にも思わないから教えてよ』

 センさんは、肩を竦めました。けれど、口元が緩んでいるあたり、楽しんではいらっしゃるようです。
 師匠は思い切り顔をしかめています。そんな師匠を見て、にこにこしているセンさんと、頭をがしがし掻いている師匠。私が知っている、お二人に近いです。

『うっせぇ。こんな状況でする話じゃねぇだろうが』
『普段から教えてくれる気なんて、ないくせにさ。まぁ、いつか『アニム』本人から聞き出してみせるから、いいか』
『……あの『アニム』聞いたって、無駄だ。知らねぇモノは、答えられねぇだろ』

 師匠の言葉で、私の思考回路のスイッチが、かちりと入りました。もういっそのこと、止まったままで良かったのに。残酷なほど、思考は冴えていきます。
 あの『アニム』は知らない。その言葉に含まれた意味が――可能性が、一気に頭の中に生まれてきました。

『でも、ほら。今は知らなくても、運命の流れに沿うなら、必ず――』
『もう、黙ってろ』

 センさんも本気で追求する気などなかったのでしょう。師匠の一言で、その会話は終わりました。
 私はぐっと奥歯を噛み締めます。師匠の大切なヒトなら、弟子である私にとっても同じはずなのに。それが私でない「アニム」さんであっても。けれど、心は醜く歪みます。

「師匠、もしかして――私ない「アニム」さん、私に、重ねてる? 私、「アニム」さん似てるから、大切、してもらってる?」

 途切れ途切れに吐き出した言葉。自分で口にした予想に、涙が溢れ出てきます。涙腺が壊れたみたいに、流れ続けます。頬をつたうどころじゃなくて、涙に溺れているようです。吐き出される色も、灰色に見えます。
 際限なく黒く染まっていく心。私、こんなに汚い人間だったんだ。
 頭の中ではわかっているつもりです。師匠もご友人方も、私をだれかの代わりになんてして親切にしてくださってるのではないと。私を見て、私の思いを聞いて、私の言葉に耳を傾けてくださっている。

「わかってる。だれも、私、何か押し付けたことない。でも、それ、私が「アニム」さんそっくりだから、そんな発想する、自分もいる」

 一度吐き出してしまった気持ちは、抑えられません。壊れた蛇口みたいに、嗚咽が流れ出てきます。嗚咽だけなら、私が苦しいだけなので、いいでしょう。
 でも、今私が口にしていることは、優しくしてくださっている皆さんを裏切るようなモノです。

「ふっ。やだ。なんで、こんな、私、自分の気持ちばっかり。私、ししょー、想う、悪いから」

 アラケルさんの事件から。私の頭は醜い考えでいっぱいです。自分の努力不足や心の迷いを棚にあげて、落ち込んでばかり。その都度、フィーニスとフィーネ、それに師匠に助けられています。
 師匠への恋心を自覚してから、辛いことばかりです。それなら一層、師匠を想わなければ良かった。異世界の人間だと、漫画や小説みたいに、一線引いた別世界の人間だって考えられれば良かったのに。

「私、ししょー好きなければ、ししょー私に「アニム」さん重ねてても、笑って済ませてた。けど……ししょー、私じゃないヒト、私の向こうに見てたなら、私、消えたい。ふっ。こんな気持ち、初めて」

 本当は、恋心を抱いてなくても、大切な人にだれかの代わりにされているなんて、耐えられないことです。でも、言い訳がましく、逃げ道を探してしまいます。
 カローラさんは、次元を越えて異世界に辿りつくということを説明してくれました。肉体的死を迎えた生命が、時折、たまたま相性が良くて次元が近づいた異世界間で行き交い合い、違う世界に生まれ変わるという現象も起きる。そう、おっしゃっていました。
 もしかして、私は師匠の大切だった『アニム』さんの生まれ変わりということ? きっと昔の私なら、なんて劇的な運命の繋がりなんだろうと考えられたことでしょう。自分のことでなければ。漫画や小説で読んだならば。

「でも、やだ。もし、万が一、生まれ変わりでも、私は私。ししょー、私が自分で知らない私前提、出会った?」

 生まれ変わりだから、全く魔法も使えないし特技もない、言葉すら通じなかった私を弟子にしてくれたんでしょうか。師匠の大切な「アニム」さんが異世界に生まれ変わったと知っていたから、いつか喚び戻すために、水晶の森や結界を作って、準備を整えていたということでしょうか。
 そう考え始めると、全てに頷ける気がします。
 
「術、失敗して出会って、一年一緒に過ごしてきたから、今の私たちある、違う?」

 そして、ふと。一番嫌な可能性にぶち当たってしまいます。
 大切な人と同じ魂を持っているから、そういう意味で好きではない私に、口づけをくれるのではと。師匠は、好きでない人に口づけはしないと言っていましたから。
 あぁ、そうなのか。否定する自分より、肯定する気持ちの方が大きいです。

「ねぇ、ししょー答えて! あの時、まだアニムなかった私、どうして「アニム」呼んでるの?!」

 師匠に掴みかかります。けれど、もちろん、師匠の腕も肩も触れることは出来ませんでした。すっと師匠の体をすり抜けてしまいます。
 前に倒れて、たたらを踏んでしまいました。慌てて振り返っても、師匠は私を見てはくれません。いつも『あほたれ』と言いながらも、苦笑で手を差し伸べてくれる師匠は、いません。
 溢れてきた涙が、水晶の地面にぶつかり続けています。
 と、魔法陣が一斉に耳に痛い音を発しました。警報みたいな音です。耳を押さえて、師匠とセンさんの前に回り込みなおします。

『ウィータ! 準備は良いよ!』

 魔法の椅子から勢いよく立ち上がったセンさんが、細身の杖を上空に翳しました。菱形の宝石が、純白の光を放ちます。
 センさんの魔力に呼応するかのように、頭上にあるアルス・マグナが風を生み出しました。

『おしっ! セン、花びらの制御は頼んだぜ!』
『任せて。ウィータ、『アニム』のことはひとまず忘れて、召喚獣を連れ戻すことだけ考えてよね』
『わかってる!』

 大きな魔法映像いっぱいに映っているのは、召喚獣。けれど、師匠が見ているのは、その横にある小さな魔法映像です。
 映っているのは、泣きじゃくっている華菜を抱きしめているお母さん。震える両手で携帯を握り締め、どこかに電話しているお父さん。それに、吐いている雪夜の背中を撫でている私です。
 そうだ、雪夜は見てしまったんだ。召喚獣の被害を受けてしまった人たちの姿を、間近で。映像に引っ張られるように、記憶が戻ってきます。
 あそこは、山中にある駐車場だったはず。数台の車が止まっていますが、同じ場所にへたりこんでいる人たちの中に所有者がいないようで、動く気配はありません。窓ガラスを割ろうとしている学生らしき人もいたんだっけ。

「ししょー、わかってないよ」

 師匠は、わかったと口にしながらも視線を動かしません。
 私を見ているはずの師匠は、私を見ていません。ねぇ、師匠は私を通して、だれを見ているの? 私は……あの時の私はまだ『アニム』じゃないのに!

『絶対『アニム』や家族を守ってやる。オレは失敗なんてしない。そしたら――オレは『あいつ』とは違って、後ろめたさでお前を傷つけることもない。堂々胸を張って、お前を手に入れられる』
 
 魔法陣の音をかき消すくらい、はっきりとした声が光の空間に響き渡りました。凛として迷いのない様子が、やけに印象的でした。
 込み上げてくる吐き気を耐えられません。もう、師匠の言葉をひとつひとつ理解することも適いません。ただ、流れていく言葉の中で呼ばれる名前だけが、耳にこびりついて離れません。

『まぁ、『アニム』にしたら、ウィータに喚ばれること自体、術の失敗って意味になりそうだけれどね』
『うっせぇ! 文句は言わせねぇ』
『やれやれ。折角また出会えても、嫌われたら元も子もないのにさ』

 センさんの意地悪な口調に、師匠は思いっきり口元を歪めました。口の端を引きつらせています。反論しようと口を何度が動かしましたが、結局出たのは『うっせぇ……』という弱々しい声でした。

「ししょー、ねぇ、だれと重ねるの、私を。あの時、私、まだ名前もらってない。「アニム」ないのに! ししょーが想う「アニム」は、だれなの?!」

 白く吐き出される息。でも、そこに混ぜられた心は黒く濁りすぎていて……ぎゅっと瞼を硬く閉じます。もう、何も聴きたくありません。

「やめて、やめて。私、アニム呼ばないで! 私、本当の名前は――!」
 
 今までに出したことのない色の声。悲鳴に近い声が空気を振動させた直後。大きな音が鼓膜を揺らしました。しんと静まりかえる空間。師匠とセンさんが、信じられないという表情で固まっています。
 この音は……銃声?




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