引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

  

8.引き篭り魔法使いの弟子と、不思議な花びら

  ここは、どこでしょう。私がいるのは、真っ白な空間です。ただ、白だけが延々と続いています。ずっといると、気が狂ってしまいそう。
 あぁ、そうだ。私は熱が上がってきて眠ったんでした。
 夢の中というには、やけに意識がはっきりしています。それが、余計に恐怖を煽(あお)ってきます。

「ある意味、悪夢?」

 呟いた瞬間、目の前に柔らかい灯りが現れました。良かったです。自分の言葉通り、周囲が黒くなったり影とかに追われたりしなくて。
 近づいてきた灯りの中心では、桜のような花びらが可愛く回転しています。
 しばらく見つめていると、光は消えました。代わりにと、シャボン玉が薄紫の花びらを包み込んでいます。

――アニム、こんにちは。突然ごめんなさい――

 花びらから、でしょうね。柔らかい調子なのに、どこか機械的だと感じてしまう声が聞こえました。頭の中に直接響いてくるような感覚は、どうにも落ち着きませんね。
 花びらは、私の周囲で踊っています。実際手足が生えているわけではありませんが、仕草があまりに人間的で愛らしかったので、そう思えたんです。
 近づいてきた花びらの不思議そうな気配で、はっとしました。挨拶も返さず、不躾な視線を向けている自分に焦ってしまいます。

「こっこんにちは! 私の名前、知ってる、ですか?」

 間抜けな感じになってしまいました。イントネーションも変に上下してるし。私ってば、もっと言うべきことがあるでしょうに。
 それは花びらも同じ心境だったようで、くすりと小さな笑いが溢れました。嫌なモノではなく、気恥ずかしくなる感じです。

――えぇ、あなたが生まれた元の世界にいる頃から。といっても、こちらへ渡ってくる直前からだけれども。ちなみに、わたしは「個」として名前がないの。だから、アニムの好きなように呼んでくれると嬉しいわ――

 意外に饒舌(じょうぜつ)です、花びらさん。個には名前がないとは、どういう意味でしょう。花びらだけに、本体である樹でもあるのかな。
 首を傾げると、花びらさんは楽しそうに飛び回りました。

「じゃあ、んーと。カローラさんで。花冠(はなかんむり)」

 ちょっと某有名移動手段を連想させますけど、そうではないのです。
 召喚さrたての頃、私は少々気落ちしていていました。そんな私を、師匠が花畑に連れて行ってくれたんです。まだ水晶の森からは出られなかったので、水晶の花畑でしたけれど。
 その時、花冠を指す言葉だと教えてもらったのを思い出したんです。

――素敵ね。ありがとう。じゃあ、早速だけれども、わたしが貴女の前に現れた目的を果たしましょうか――

 って、本当に早いですね! っていうか、目的って?! これは夢じゃないのですか?!
 狼狽(ろうばい)している私を他所に、カローラさんは私の頭上を旋回しました。
 すると、白の世界が眩しい光を放ちました。
 反射的に、瞼が閉じます。目がじわじわと痛みます。思わず、ごっこ遊びをしたくなるほどです。ごしごしと目を擦ってしまいます。

――ごめんなさい。人への影響加減が、よくわからなくて――

 優しい声が、やや上から降ってきました。どこか抜けたところのある、愛らしい調子です。捉えようによっては若干恐怖を感じる台詞ですが、カローラさんは危害を加えてくる花びらさんではないと信じておきます。女の直感で。
 私は大きく頭を振ります。が、次の瞬間、聞こえてきた、けたたましい音に全身の筋肉が硬直してしまいました。
 煩くて、耳障りで。でも、どこか懐かしい機械音。そうです。水晶の森では耳にするはずのない、軋み。目を擦っていた手が、汗でべとついていきます。
 ぼやける世界に目を凝らすと、徐々に靄(もや)は形となっていきました。
 
「これ、私の……世界?」

 眼前を行き交うのは『自動車』でした。信号機に従ってせわしなく走り続ける車たち。リアルに排気ガスの煙たさも感じてしまい、咳が出ました。こんなにも苦しいモノでしたっけ。
 どうやら、私はやや上空にいるようです。花びらなカローラさん視点ぽいですね。ふわふわと浮いている感覚です。
 浮遊感を堪能する暇もなく、ゆっくりと地上に近づいていきました。
 信号待ちをしているのは様々な人たちです。ある人は苛立たしそうに何度も時計を見て、またある若い子たちは赤信号などを気にせずおしゃべりに興じています。

「あれ!」

 思わず口を覆ってしまいました。驚きで出た声は、予想以上に震えていました。
 信号機が色を変えたのと同時、ざっと歩き出した群衆の中に知った顔がいました。友人の千沙(ちさ)と亜希(あき)、それにゼミの先輩数人でした。リクルートスーツを着て肩を落としている先輩の一人を、皆で励ましているようです。
 後を追おうと手足をばたつかせますが、体は全く動いてくれません。
 そうこうしている間に、皆は建物の中に消えていってしまいました。私は一年前の記憶を必死で辿ります。

「私は家族旅行で参加出来なかったけど……確か、あの先輩が最終面接で落ちたから励ます会やるって言ってた。あの日の光景を見ているの?」

 騒音はいつの間にか聞こえなくなっていました。それに加えて、自分で呟いた言葉に鳥肌が立ちます。
 理由はふたつ。自分がしゃべった言葉が、元の世界のモノだったから。それに、何故、自分が知らないはずの光景を見ているのかです。
 最近は、夢の中でも異世界の言葉一色だったのに。
 私がいた場所を思い出すのであれば、これは懐かしい夢なのだとほっこりも出来たでしょう。けれど。

――夢ではないと、わかってもらえたかしら? まぁ、アニムの意識に直接お邪魔しているから、夢といえば夢なのだけれど――

 淡々とした口調のカローラさんは、目の前でふわふわ浮いています。
 いやいや、でも私の想像という可能性も捨てきれません。大体、どうしてカローラさんは私の世界の様子を知っているのでしょう。

「カローラさんは、私の世界の言葉がわかるの? それに、一体どういうトリック?」

 いつもの癖で、ちょっと片言になってしまいました。それに、ほっとしたのと同時に、ぎゅっと胸が締め付けられました。その原因から目を逸らしたくて、カローラさんを見つめます。
 カローラさんをそっと両手で包み込むと、再び上空に移動していました。瞬間移動です。

――トリックではないのよ? そうね、何と言ったら伝わるかしら。まず、どうして私がアニムの世界を知っているのかだけれど……わたしの存在そのものに関わってくるから詳しくは言えないの。わたしは、あくまでも大きな存在のひとかけらでしかないから。だからこそ、他の世界を垣間見ることが可能なだけれども――

 うーん、良くわかりません。カローラさんがおっしゃっている内容に具体性がないからでしょうか。出来れば箇条書にして説明して頂きたいです。そんな、大いなる謎みたくフラグを置いていかれても困ってしまいます。
 まぁいっか、で割と受け入れてしまう順応力だけはある私に、推理や謎解きは不可能ですよ。
 腕を組んで首を傾げている私を、カローラさんが笑った気がしました。

――わたしたちの世界、それにアニムがいた世界。世界は幾重にも重なり、点在しているの。次元が異なるモノがほとんどだから、触れ合うのは滅多にないわ。魔法自体存在しないアニムの世界と、魔法が生命の根幹(こんかん)にあるわたしたちの世界みたいに、特に性質自体が違う世界はね。けれど、確かに、幾つもの世界が存在しているの――

 いわゆる並行世界(パラレルワールド)や並行時空というやつに近いと考えていいのかな。あっ、でも平行世界は次元が同じなんでしたっけ。
 すみません、私にはSFとか物理学の知識など皆無です。映画で得られるレベルか、それ以下です。

――生き物が往来出来ない理由で一番多いのは、次元や世界を超えられる肉体を持つ生物が少ないということね。召喚術で呼ばれる召喚獣で言えば、耐えうる肉体と存在値を持ち、なおかつ古代において、喚ばれる世界と繋がりを持っていたり生きていたり、何かしらの接点があるわ――

 ふむふむ。ちょっと理解が追いついたような。
 ようは、異世界の境界を越える衝撃に体が耐えられないんですね。私理論として、大気圏突入の衝撃って感じなのだと、結論づけておきましょう。

――つまり、自分が生まれた世界の理(ことわり)や成り立ちに縛られている肉体を持っている以上、その世界から存在を切り離して異世界にやってくるのは難しい。魂よりも肉体的な制限の方が、大きな要因なのね。だから、肉体的死を迎えた生命が、時折、たまたま相性が良くて次元が近づいた異世界間で行き交い合い、違う世界に生まれ変わるという現象も起きるのよ? まぁ、条件は複数あれど、生きながらにして世界を渡ってくる生命はいるわ。とんでもなく強い召喚術や、前に生きていた世界と近づいて引っ張られてしまったという例も多いの――

 なるほどなるほど。昔から神隠しにあったと言われる人たちは、この理屈に則っているのかもしれませんね。私は後者でしょう。とんでもなく強い魔力を持った師匠の、すごい召喚術の失敗に引っかかってしまったという。
 掌を打ちならした音が、乾いた空気に良く響きました。

――だから、世界の壁を一度越えてしまうと、容易には戻れないの――

 不思議です。聴きたくなった言葉なのに、心のどこかでは、すんなり納得しています。
 それが、師匠なら絶対に元の世界に戻る手段を知っているという確信からなのか、戻りたいと思っていないからなのか。正直、判断はつきません。
 嫌だ、いやだ。苦しい、くるしい。
 ぎゅっと両肩を掴んでも動悸は静まりません。どうしたいのかと聞かれたら、わからないとしか答えようがありません。けれど、師匠と離れなければいけない。そう突きつけられたら、私は……。

「私は、どうしたいんだろう。どうなるんだろう」

 カローラさんは答えてくれませんでした。
 当然といえば当然です。私自身がはっきりさせなければいけない答えです。現実はともかく、私は帰りたいのか帰りたくないのか。一言帰りたくないというのは簡単です。けれど、今の私には帰りたくないとも帰りたりとも言い切れる自信がありません。
 現実から逃げるのは簡単です。けれど、現実を考えすぎるのも、判断としては安易すぎると思えるのです。
 深い溜息が落ちました。すると、青い空は姿を変えていきました。今度は足元が山の風景になりました。紅葉がとても綺麗です。

「ところで、カローラさんはどうして私が知っているけど知らない光景を見せられるの?」

 目下の疑問です。カローラさんが見た光景であるなら、それはそれで不思議です。だって、たった今、カローラさん自身が世界の壁を越えるのは容易くないと口にしたばかりです。
 しかも、さっきの排気ガスと同じように、秋の山らしい冷たさと心地よさを混ぜ合わせた空気もリアルに感じられています。澄んだ美味しい、であろう味まで。であろう、というのはですね。水晶の森の清浄さに慣れてしまった私には、いまいち元の世界にいた頃の感想を抱くことが出来ないのです。
 カローラさんを見つめると、光が数回瞬きました。まるで人が瞬きをしているようです。

――わたしの大元は次元に捕らわれない存在。人のモノサシで言うなれば、特殊な存在だから、かしら。それからさらに切り離された『わたしたち』は、とある条件下においては割と自由に世界を渡れるの。ただし、渡った先の世界で消えてしまうから、戻ってくるのは無理なの。けれど、『わたしたち』同士で記憶の伝達がなされる。なので、今の光景も、本来はわたしが見たものではなく、記憶を伝達されただけのモノなのよ――

 カローラさん、さらりと言われましたけど、それは人で言うところの『死』を意味するのではないでしょうか。
 身震いが起きました。自分の口から「消えてしまう」と小さく溢れた言葉に、ぎゅっと自分の両腕を掴む手に力が入ります。
 それを見たカローラさんは、おどけた調子でくるりと弧を描いて見せました。

――アニムが心を揺らす必要はないわ。わたしたちにとったら、特異な現象ではないもの。でも、ありがとう――

 カローラさんの機械的な声質が、最後の一言だけ和らぎ、ワントーン上がった気がしました。
 それと同時に、かぁっと体が熱くなっていきます。
 元の世界では、命ある存在の最後は『死』と表現されていました。動物であれ、植物であれ。魔法が溢れる異世界でも、ほとんどの意味に置いて差はありません。
 けれど、カローラさんが言ったような命の繋がりもあるのです。その営みに対して、勝手な自分の価値観からの苦しさや悲しみを押し付けるなんて。彼らにとってみたら、迷惑以外の何者でもないはずです。

――アニムは色んな考えを、自己完結しすぎな傾向があるわね。『あの子』も『わたしたち』の前で憂いていたけれど、本当ね――

 気になる単語が幾つかありますけれど! もしかしなくても、私の思考回路の中身大公開されてるんでしょうか?! よくある、思考筒抜けテレパシー的な。それだったら、余計に恥ずかしくてブッ倒れそうです。
 口を開けたまま、さらに赤くなっていくのがわかりました。

――安心して。いくら意識、というか魂と共鳴しているからといって、魂の全てと触れ合うなんて芸当、わたしではこなせないわ。乱暴に思考に介入する方法はあるけれど、双方がリスクを追う禁忌なの。アニムの魂は『あの子』の魔力と同化しているから、わたしは受け入れてもらいやすかったり、伝わりやすかったりはあるけれど。そもそも、アニムの場合、表情が豊かなのよ。『あの子』にもわかりやすいって言われない?――

 もしかしなくても、カローラさんが指す『あの子』というのは、師匠なんでしょうか。
 師匠を『あの子』と呼ぶ方に、初めてお会いしました。場にそぐわない思考ですが、少し心が明るくなります。新鮮です。というか、どういうご関係なのでしょう。
 と、あからさまに表情に出ていたのか、カローラさんが小刻みに揺れていました。
 
「カローラさん、笑うひどいです」

 恥ずかしい! 羞恥のあまり、思わず片言です。
 師匠の話になると、どうにも思考が飛んでしまいます。そう考えて、ふと踊っていた気持ちが陰りました。
 私が師匠を慕っているのは、魂を守ってくれている魔力の影響なんかじゃないですよね?
 ううん。絶対に違う。確かめるように、師匠がくれたネックレスを強く握り締めました。深く蒼い宝石のネックレス。光を受けると、師匠のアイスブルーの瞳と似た色の輝きを見せてくれます。私の宝物。
 じっと見つめていると、乱れかけた心が落ち着きを取り戻しました。

――話を戻すけれど。わたしに伝達された記憶を、さらにアニムに見せている状況なの。アニムの知り合いがいたのは、偶然と言えるかしら。必然と言った方が正確かもしれないけれど、アニムにとってみたら偶然だものね。それはともかく、証拠にほら――

 カローラさんが一回転すると、眩しいほどに輝きました。
 目に痛い光ではなく、あくまでも優しくて包み込まれるような暖かい光です。けれど、反射的に瞼を閉じてしまいました。
 ちろりと薄く瞼を開けてみると、先程までは紅葉に覆い尽くされていた空間に、様々な映像が映し出されていました。フィルムのように、区切られた場面が流れています。
 つい先日のアラケルさんとの対戦や、長い後ろ髪を束ねた師匠の姿もあります。見たことのない師匠や、ご友人たちに目を奪われてしまいました。私が知っている皆さんよりも、険しい目つきをしているシーンもあります。

「あっ! 寝込んでる私を看病してくれている師匠だ」

 無意識のうちに手を伸ばしていました。映像に掌が触れると、空間全部が変わりました。まるで、その場にいるかのようです。暖炉の火の香りや夜の静けさも伴っています。
 熱にうなされて呼吸を荒くしている私の汗を、丁寧に拭ってくれている師匠。私にはあまり見せない、不安に満ちた表情です。胸を上下させている私よりも、苦しそうに眉を顰めています。

『あにむちゃ、おねちゅさがらないでしゅね』
『もうすぐ、薬がきいてくりゅはずぞ』

 私の顔の両横では、フィーネとフィーニスが一生懸命頬を舐めてくれています。
 熱さのせいでしょう。掛け布団の上に出てきた私の手を、師匠がぎゅっと握ってくれました。私も弱々しい調子で、指に力を入れたのがわかります。
 全然知らなかった看病風景に、言葉に出来ない想いがこみ上げてきます。

『4日も寝込んでんのは、オレのせいだ。魂の定着だとか魔法の影響ばっかに、気を取られてた。少し考えればわかるよな。あんな吹雪の中にいたり、暖炉の火の前とは言え服脱がせてたりしたら、風邪引くってのは……』

 師匠らしくない弱々しい声です。
 最初は動画を見ているような不思議な気分でしたが、あまりに苦々しく呟かれた言葉に胸が締め付けられました。

『アニムは普通の人間なのに、いや、普通の人間以上に体調に気をつけてやらなきゃいけなかったのにな。お前があまりに世界に馴染んできてたのに安心して、油断してた』

 過去の映像だとわかっていても、思わず師匠の頭を抱えてしまいました。当然、触れた感覚はないし、師匠も反応は示しません。けれど、腕には力が込められていきます。
 師匠は何も悪くないです。ちゃんと髪を完全に乾かして、もっと厚着して寝なかった私がいけないんです。
 目が覚めたら、ちゃんと師匠に言わなきゃと心に誓いました。

『アニム、悪い。オレにうつしてくれて良いから、目を覚ましてくれ。アニムの声が聞きたい。困ったり怒ったり……笑いかけてくれよ』

 汗で額に張り付いている前髪を払い。師匠が唇を寄せました。おはようの挨拶みたいに軽いモノではなく、熱を吸い取るような触れ方です。
 フィーネとフィーニスも負けじと頬に擦り寄ってくれています。
 しばらくすると、師匠がフィーネとフィーニスを抱き上げました。二人からは「やにゃ!」と珍しく抗議めいた声があがります。けれど、師匠は丸テーブルに置かれた編み籠に暴れている二人を降ろしました。中には、フィーネとフィーニス専用のふかふかベッドがあります。
 最初こそ抵抗していたフィーネとフィーニスですが、師匠が頭や顎下を何度も撫でると、大人しくなり、身を寄せ合って眠りにつきました。

「師匠」

 元の世界の言葉で囁いた呼び名。自分の声がひどく遠く聞こえました。まるで他人の声や聞き覚えのない言葉みたいです。
 フィーネとフィーニスの寝息に、数秒頬を綻ばせた師匠ですが、すぐに表情を歪めてベッドに腰掛けました。薬が効いてきたのか、苦しみが和らいだ私の頬を撫でてくれます。私は師匠の手に擦り寄りました。夢に見た、あのぬくもりは、本物だったんですね。

『ししょお。うぃーたししょー……』

 か細く紡がれた言葉。掠れて聞き取りにくいのに、やけにしっくりとくる響きです。
 泣きそうに瞳を潰した師匠に、今の私の目頭が熱くなっていきました。自分が師匠を悲しませているんだ。そう考えると、どうしようもなく切なくなってしまいます。
 私が泣いてどうすると大きく頭を振ります。ゆるく編みこんだ髪が顔にあたって、ちょっと痛かったです。

『ん。オレは傍にいるよ、アニム。だから、アニムは安心して寝とけ』

 声を掛けられた当人からしても、とても甘く聞こえた声に、全身が痺れました。私の名前を何度も呼んでくれます。大好きな響きに、鼓動が早まっていきました。
 師匠は、投げ出されていた私の手を数回撫で、布団にしまってくれました。そうして、また、流れている汗を拭き始めました。
 すっと。師匠や部屋は遠ざかっていきます。霧(きり)の中に消えてしまいました。

――ずるいモノを見せてごめんなさい――

 ずるいモノ? 私にしてみたら、師匠の心に触れられて嬉しくは思っても、ずるいなんて発想は全く浮かびません。
 師匠にとったら、見るはずのない寝込んでいた当人に見られてしまった、という文句はあるかもしれませんけれど。
 首を傾げますが、カローラさんは少し前と同じように、数回光を点滅させただけで答えてはくれませんでした。

――これからが、アニムに見てもらいたい……思い出して貰いたい、現実なの――

 くるくると、私の頭の上にまで旋回しながら舞い上がったカローラさん。光の粒子が飛んだかと思うと、微細だった粒は大きく膨らみ、鮮やかな紅に変わりました。
 そして、カーテンがひかれるように景色が変わっていきます。先程の紅葉でしょうか。違ったのは、山の中腹部にある展望広場のような場所という点です。

「ここ、知ってる」

 今度は、地面に足の底がついています。ぐるりと周囲を見渡すと、木の手摺りに身を乗り出して紅や黄金に色づいた紅葉に歓声をあげている少女の背中に目が止まりました。真新しさを感じさせる携帯を、紅葉や空に向けています。
 夕焼けをうつした紅葉は、一段と美しさを増しています。もう少し暗くなれば、ライトアップされるんですよね。私は知っています。
 そうです。私には見覚えがある景色です。

『おねーちゃーん、お団子食べないのー?』

 声の方を振り返ると、何人かがお茶処の前に腰掛けていました。
 赤い座布団に座って大きく手を振っている妹の華菜(はな)は、中学生らしく幼さを残した笑顔を浮かべています。その横、愛想のない様子で単語帳を横目に入れながら、みたらし団子を何本も頬張っている弟の雪夜(ゆきや)は、紅葉狩りにしては少し寒そうなおしゃれ重視の格好です。二人と違う席には、仲良くデジカメを覗き込んでいる、張り切った山登りスタイルのお母さんとお父さんがいました。

「お母さん、お父さん、雪夜、華菜」

 覚えています。召喚直前、受験生である雪夜の気分転換にと、家族揃って紅葉を見に来ていたんです。元々活発な雪夜は、ぶつぶつ文句を垂らしながらも一番楽しそうに登っていたんですよね。
 あの日が今、目の前で再生されている。私は、懐かしさと得体の知れない不安から、呆然と立ち尽くすことしか出来ません。家族を思い出すと襲ってくる頭痛はありません。
 込み上げてくるのは大切な家族への涙なのに、胸がざわつくんです。

『もちろん、食べるよー! こしあんとヨモギは私のだからねー!』

 幸せそうな家族を前に固まってしまっている私の横を、肩上の茶髪を揺らした少女が駆け抜けていきました。大きめなリュックを背負って、それでも、軽快な足取りです。
 その少女は他のだれでもない――私自身です。




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