4.引き篭り師弟と、お酒の時間 【4】
「……おい、どっちだ。アニムに酒飲ませたの」
「う……ん?」
じんわりと額に感じた熱が、まどろみから引き上げてくれました。ゆっくりと瞼を開いていくと、師匠の掌がありました。前髪を払った状態で止まっているようです。
お風呂あがりだからでしょう。とても温かいです。ほぅっと出たのは息。嫌な夢を見ていた覚えはありませんが、目が覚めて良かったと安心していました。
「ししょー?」
出た声は、少しですが掠れていました。 お酒の飲みすぎですね。
師匠は捻っていた腰を戻し、さり気無く距離を取りました。ちょっと前の安らぎは否定しましょう。師匠ってば、牙が生えてきそうな恐面さんです。
ですが、やはり特に頬を抓られたり頭を小突かれたりはありません。緩んだ涙腺を誤魔化すように、目を擦ります。身体を起こすと、一瞬、くらりとしました。
「ねぎらいのお酒なのですよ! わたしが折角おいしーいお酒を持ってきたのに、アニムに飲ませてあげないなんて可哀想なのです!」
師匠、問いかけておきながら、完全にラスターさんを疑ってましたね。ちらっと上を向くと、酒瓶を掲げたのがホーラさんだったのに驚いていました。
どうしたものかと、腕を組んで立ち尽くしています。師匠、ホーラさんにはめっぽう弱い気がしますけど、それこそ弱みとか握られてるんでしょうかね。
「アニムちゃん、そんなに擦ったら傷が付いちゃうわよ?」
「んー?」
ラスターさんの柔らかい声が聞こえてきます。目が完全には開いてくれないので、揺れる頭のバランスを取りながら、体だけ声の方へ向けました。
「も! 仕草がネコみたいで可愛いんだから。あたしが、優しく擦ってあげるから、こっちにいらっしゃい――って、ウィータ、痛いじゃない!」
「その手つきを止めろ」
べしっという大きな音で、一気に視界が広がりました。ラスターさん、いつの間にかホーラさんと椅子を半分こにして座っていました。
どうやら、師匠が愉快なポーズでラスターさんの頭を叩いたみたいです。師匠、本当に男性には容赦ないですね。
ラスターさんが師匠に怒られている間に、ホーラさんが逃げてきました。私の隣に跳ねて座ると「防衛壁に使っちゃったのですよ」と笑いましたよ。酔っぱらっても、ホーラさんはホーラさん。一番、ちゃっかりしていらっしゃいます。
「それより、アニム、作戦実行なのです」
言われて、一瞬なんのことだっけと、惚けてしまいます。
そうそう、師匠とレッツ・スキンシップです! お祭りです。フラグを立てて、親密度アップです。
「ししょー!」
すくっと立ち上がり師匠の服を引っ張ってやります。破れそうな勢いに驚いたのか、振り向いた師匠の顔といったら。
そのまま、押し倒す勢いで抱きついてやります。
「おわっ! ちょ、アニム、相当酒くせぇぞ!」
師匠、お酒を飲んでいるですから当たり前です。しかも、女子に抱きつかれた感想にしては、デリカシーがありませんよ。首に回した腕に、力を込めてやります。
想像していた展開だと、甘い香りがするとか柔らかさに動揺するはずだったんですけど。
「ししょー、ひどい。弟子、素直、甘えてる」
ちょっとだけ身体を離して師匠の顔を覗き込んでみます。私よりも少し背の高い師匠。わずかに上目になってしまいます。寝起きのせいか、まだ焦点が定まりません。
師匠といえば、両手を宙に浮かせたまま呆れ顔で動きません。ここは普段の労をねぎらって、背中とか頭を撫でてくれる所ではないんでしょうか!
「そうよーウィータ。なんなら、あたしが代わってあげるわよん」
「お前の弟子は、別にいるだろうが」
「アニムちゃん相手なら、別に、あたしは『師匠』としてじゃなくっても構わないもの」
なんだか悔しくなって、今度は背中に腕を回して思いっきり抱きしめてやります。夜着な師匠は、いつもより薄着です。胸に耳を当てると、とくんとくんと心地よい鼓動が響いてきました。あったかい。
「ししょーは、人と触れ合う、嫌いですか?」
師匠ってば、なんだか甘くていい香りがします。さっき浴びたお酒の匂いが、微かに残っているのでしょうか。石鹸の爽やかな香りと混じっています。あれ、これって私がうっとりしちゃってる側なのでは。おかしい。
それにしても、もやしっこだと思っていたのに、案外筋肉もついてますね。これは、まさかの腹筋割れも事実でしょうか。
っていうか、私の質問には応える気、皆無のご様子。
「こんな森に閉じこもっているんですもん。お酒くらい良いじゃない。それに、もっと希望とかも聞いてあげたら?」
「そうだ、そうだー! ラスターさん、もっと、言うです! かっこいいです!」
私は片腕を振り上げます。ラスターさんを見ると、ひらひらと手を振ってくれました。
とは言っても、私、今の生活に不満があるわけでもありません。家電製品は欲しいですけど、それはどうしようもないですからね。自分で作る知識も技術もありません。
というか、式神さん経由で、十分すぎる程の洋服や小物を買って貰ってます
「希望つったて……。なんだよ」
なので、師匠に問われて、困ってしまいました。
一旦身体を離し両手で師匠の腰辺を掴んだまま、考えてみます。天井を睨むと、頭がくらっとしました。足元がふらつくと、師匠が後頭部に触れて元の位置に戻してくれました。すぐに離れてはしまいましたけどね。
そうです、そうです。これです!
「じゃあ、うーんと、頭、撫でて?」
「頭だぁ?」
「ダメ、です?」
こてんと首が横に倒れます。じーと師匠を見つめていると、アイスブルーの瞳に吸い込まれてしまいそうです。穴が開くほど見つめているからでしょうか。師匠は口をへの字にして、心無しか一歩後ろに引いてしまったように思えます。
身の危険でも感じたんでしょうかね。やだな、ラスターさんじゃあるまいし、とってくったりしないですよ。
「ししょーの瞳、好き」
だからなんだって言われても困るわけですが。今、伝えたいなって思ったんです。
見れば見るほど、綺麗です。繊細な細工が幾重にも施されたような宝石。原石も味があるなと思いますが、施された細工のひとつひとつ、加工過程を知りたいと思ってしまいました。
気が付けば、師匠の目元に指を伸ばしていました。指の腹から伝わってくる師匠の温度に瞼が落ちかけました。
「アニム、完全に酔っぱらってるな。支離滅裂だぞ」
「ちょっ! ししょー!」
突然、視界が自分の前髪で遮られました。頭頂部を押さえつけられているようです。師匠、これじゃ、撫でてるっていうより、かき乱しているっていうか、押さえつけられてる感じですよ!
師匠の手首を掴んで何とか引き剥がします。まぁ、多少自分でも酔っぱらっている自覚はありますよ。ありますけど、それがなんだって言うんですかい。
ぶすっと頬を思い切り膨らませて師匠を睨みあげてやります。
「今度は顔芸かよ。不細工な面になってんぞ」
「ウィータ、確かに今のアニムは面白顔大賞なのですけど、女の子にはもうちょっと表現柔らかく言ってあげなきゃなのですよ」
「ひどい!」
私にだって変な状態っていう自覚はありますよ。でも、もうちょっと、リスが頬袋に木の実蓄えてるみたいとか、鬼灯みたいとか、可愛らしい例えがあるでしょうに。まぁ、そりゃ、私には似合わない描写です。自覚はあります。
ちょっと悲しくなりました。自然と顔が下を向いてしまいます。なんだか、感情の起伏が激しいなぁ。
「おっ、おい。アニム、こんなことぐらいで、どうした」
「うーどうせ、私は赤ちゃんパンツに赤ちゃんおっぱいで、ブサイクですよー! ししょう、巨乳好き。おっぱい魔人、おっぱい弟子にすれば良かった!」
「馬鹿か、お前」
っていうか、セルフ突っ込みしても良いですか。おっぱい弟子って。おっぱいは体についてるから愛しいのであって、独立したおっぱいなんて嫌です。おっぱいに足と手が生えてるって、ある意味グロテスクです。
師匠の突っ込みが無難で弱すぎて、暴走を止める気になれません。どなたか、もっとインパクトのある突っ込み、お願いします。
「アニム、赤ちゃんはお色気なボルドーに黒いレースの紐パンは履かないのですよ」
ホーラさんの言葉で、師匠がそわっと挙動不審になりました。もしかしなくても、思い出しましたね。そして、ホーラさん、詳細説明ありがとうございます。フォローのつもりでしょうか。自分で放っておきながら、恥ずかしさを思い出してダメージ倍増です。
両腕を上にあげて暴れてやろうとした時、ラスターさんの救いの声が背中を撫でました。振り返ると、両腕を広げて微笑んでいるおねえさまの姿がありました。
「可哀想に。こんなに可愛いくて美味しそうなアニムちゃんに向かって、ひどい二人ね。いらっしゃい、あたしが慰めてあ・げ・るぅ」
「ラスターさん!」
振り上げようとしていた両手を胸の前で組んで、救いの女神様に祈りを捧げます。ラスターさんが、お会いして一番輝いて見えました。御光が眩しいです。
一瞬頭の片隅で、どちらさまかが「だれ得コントだよ」とささやいた気がしました。私得だよ、私得。と、天の声を追いやります。
「さあ、おいでなさい! あたしが悦びの天国へ誘ってあげるわ!」
「……明らかに喜びと違う響きなのですよ」
「あら、何一つ、間違っていないわよ?」
今直ぐにでもラスターさんのお胸に飛び込みたいですが、もう一歩後押しが欲しいですね。起爆剤が必要です。
ちょうど良く、近くにお酒の瓶がありました。瓶の四分の一ほど残っているでしょうか。ここ一番の瞬発力を発揮して、瓶に直接口をつけます。ごくん、ごくんと三回ほど喉が動いたところで、残念ながら師匠に奪われてしまいました。
「アニム、行儀が悪いだろ」
「ふーんだ。弟子の質問、答えないししょー。知らないもーん」
「もーんじゃねぇよ。お前、もう寝ろ」
残りのお酒は、師匠が全部飲み干してしまいました。地味に間接キスですよね。鈍すぎる師匠は、気にした様子もありません。少し乱暴に酒瓶を床に置いただけで、表情は変わりません。
が、その隙に、私はラスターさんの方へ駆け寄ります。
「ラスターのおねえさま! って、うわ!」
走り出した瞬間、足が絡んで視界が揺れました。ドジっ娘属性はなかったはずです、私。自分の足に躓(つまず)くなんて、かっこ悪すぎる。
顔面を打って赤っ鼻になったら、むこう一ヵ月はネタにされますね。
「はぁ」
いつまで立っても来ない衝撃。それもそのはず。お腹あたりに感触を感じて瞼を開くと、どうやら師匠の腕に救われたようです。前屈みの状態で、師匠の腕にぶら下がっています。
ゆっくり顔をあげると、そこには、呆れを通り越して、虚しさを漂わせている師匠がいました。目に哀れみが浮かんでます。傷つくなぁ。
「アニム、色々突っ込み所が多過ぎるが。まず、ラスターが男だっての忘れてないよな」
「もちろんです。でも、ラスターさん、体、女の人。色っぽい女の人。もーまんたい」
「最後、何言ってんのか不明だが。わかってんだったら、もうちょっと考えて動け。酒に酔ってるからだろうけどよ」
ラスターさんが、せめて男性の状態なら私も警戒心が持てます。一回、ラスターさんが男性に戻って見せてくだされば良いんですよね。
「ラスターさん、男性の姿、見たい。そうしたら、気を付けられるです」
「あたしは、いつでも大歓迎よ。一糸纏わぬ姿、全部見せてあげたいけど……」
「却下だ!」
ちょっと、師匠。ラスターさんにお願いしているのに、なぜあなたがお答えに。まぁ、私もラスターさんの赤裸々な姿は、別段見たくないです。
「ラスターは、万年発情なのですもんね! ウィータは、ちょっと見習ってもいいのですよ」
「ホーラ、もうちょっと言い方考えて頂戴よ。でも、ウィータに関しては、同意するわ」
ラスターさんは文句を言いつつ、特に嫌そうな顔はせず頬杖をついただけでした。
ホーラさんの使った単語の意味は理解出来ませんでした。ですが、師匠の名前が出たので、とりあえず話に入っておきます。
「そうだー! 意味は理解出来ません、です。けど、そうだー!」
腹部にまわっている師匠の腕に体重を預けたまま、腕を振り上げます。師匠の顎にストレートが決まらなくて良かったです。それだけ、微妙に距離が空いてたって事かもしれません。
三人で顔を合わせて「ねー」と満面の笑みで頷きあいます。楽しいです。
ですが、楽しんでいるのは私たちだけのようで、後ろからはお怒りの声が鳴り響きます。
「お前ら、いい加減にしろー! 大体、アニム。お前、危機感ないだろ! ラスターに対しても、今の発言に対しても、後々後悔しても知らないぞ!」
「ししょー、私、酔っぱらい。それに、私、赤ちゃん。危機感とか、わっかりませーん」
肩をすくめておどけてみせます。さすがに、ちょっと調子に乗りすぎでしょうか。トリップ当初に叩き込まれた警戒心はぐっすりと眠っています。
おまけにと、膨れた顔をぷいっと横へ向けてやります。案の定、師匠は青筋を立てました。
「だー!」
思い通りにならないからって、大きな声をあげてはいけません。ご近所さん、はいないけど、静かに鳴いているふくろうさんたちを驚かせてしまいます。むしろ、夢心地の小動物さんたちが抗議にやってきますよ。想像すると、可愛いです。
すっかり、私は思考がお留守になってしまっています。ちらりと見えたラスターさんは、妖艶な笑みを浮かべてらっしゃいました。
「ところで、ウィータ。いつまでアニムちゃんを抱えているの?」
ラスターさんの言葉が合図になり、身体が急降下していきました。
「いたっ!」
「あっ、悪い」
気が付けば、床に座り込んでいました。師匠に体重を預けきっていた私が悪いんですけど。あまりに軽い師匠の言葉に、むっと腹が立ってしまいました。
机の下に敷かれた絨毯のふわ毛をむしってやる。ぷちぷちと抜けていく毛が、床に散らばっていきます。あっ、ちょっと快感。
「アニム、お前はこのまま寝室行きだ。来い」
大きな溜息が聞こえたのと同時。腕を掴まれて、ぐいっと力強く上に引っ張られました。
次の瞬間には、手が握られていました。思ったよりも大きな手です。唖然と、繋がっている部分を見つめます。
じわじわと広がっていく温度と一緒に、自分の頬が綻んでいくのがわかりました。嬉しさで微笑んでいました。
「はーい。ラスターさん、ホーラさん、おやすみです」
師匠が歩き始めたのに、素直についていきます。振り返っておふたりに手を振ると、ホーラさんも返してくれました。
けれど、ラスターさんは考え込んだ表情で、おもむろに立ち上がりました。
「ちょっとウィータ、待ちなさい」
「んだよ」
面倒くさそうですね、師匠。登りかけた階段に足をかけたまま、視線だけを流します。
ラスターさんはびしっと指を前に突き出しました。
「声は漏らしても良いけど。行き成り激しくは、ダメよ!」
「うっせぇ!! お前ら、アニムに酒飲ませた責任とって、後片付けしておけ!」
「はいはーい、なのですよ」
あっ、師匠が茹でダコになりました。それにしてもラスターさん、もう寝るから大きなしゃべり声は勘弁という意味でしょうか。おふたりとも、全然寝る気配はありませんけれど。
片付け、すっかり忘れてました。
「片付けすみません。明日、朝ごはん、頑張ります!」
「あん、楽しみにしてるわ。でも、体が辛ければ無理しないでねん」
ラスターさんに投げキッスをされます。ピンク色のハートが飛んできた気がします。桃の香りまで漂ってきたような。
体とは、二日酔いってことでしょうか。私、記憶は飛ぶみたいですけど、頭痛や吐き気に襲われた経験はないので、大丈夫です。
階段には、ランプのあかりだけです。うっかりすると足を踏み外してしまいそうな暗さなんですよね。私がお約束をすると考えたのでしょう。師匠は繋いでいた手を外し、私に前を歩かせます。
「それにしても、あれよね。ウィータのやつ、もっと怒ると思っていたのに」
「なのですね。アニムに甘えられて、満更ではなかったのですよ。きっと」
「聞こえてんぞ!」
師匠の怒鳴り声で耳鳴りがしそう。っていうか、良く聞こえますね。私には階段がきしみをあげる音しか、聞こえませんよ。
私たちが廊下を進むと、等間隔で壁に備え付けられているランプが一足先にあかりを灯していきます。人に反応するみたいです。凄いなぁ。LEDみたいですね。
私に宛てがわれた部屋は、資料室とは反対側の角部屋です。出窓とテラスもついている、快適な部屋です。
「ただいまー!」
「自分の部屋に帰ってきただけだぞ」
ぱたんと扉が閉まった音が静けさを破りました。ちゃんと師匠も一緒に入ってきたようです。今からお説教でも始まるんでしょうか。でも、これは良いチャンス。勉強机とベッド際に置かれたランプから、ぽっと光が広がりました。
未だに小雨なので、開いたままのカーテンから月明かりが漏れてくることはありません。薄暗いですが、元々部屋にあるのはタンスや勉強机、それにベッドくらいなので、躓く心配もないです。
「ほら。ちゃんと着替えて寝るんだぞ」
あれ。師匠ってば、珍しくお説教なしでしょうか。本当に送ってきてくれただけ?
首を傾げながらカーテンを締めると、部屋の暗さが増しました。うーん、いけない。これではホーラさんのミッションをクリアー出来ません。
そして、自分でも何を考えたか不明ですが。気が付けば胴に巻いているコスセットみたいな服のリボンに手を掛けていました。
「ばっ! オレが出ていってから着替えろ!」
「ししょー、出ていこうとするから。私、希望出来ました」
「希望? あぁ、さっきの頭撫でるとかっていうやつかよ」
床に落ちた服もそのままに、背中を向けている師匠に近づきます。きゅっと、師匠の服を握ると、一歩前に逃げられました。離さないぞ。
大体、まだワンピースは着たままなので、見ても問題ありませんよ。お腹周りが開放されて、爽快です。
「今日、一緒に寝てください」
「……あほか。お前は、本物の赤ん坊か」
まぁ、当然の返しですよね。言われるとは思っていました。でも、ここは譲れません。ホーラさんからのミッションもありますが、本当に一人では眠れなさそうなんです。さっき、中途半端にうたた寝したのが良くありませんでしたかね。
師匠の服を握る手に、力が入ります。
「私、赤ん坊で良い。せめて、寝るまで一緒だめですか? おしゃべりとか」
未だに扉の方に視線を向けている師匠の表を覗き込みます。私がまだ洋服を身に付けているのに気が付いたのか、特に抵抗はされませんでした。
ただ、困惑の色が伺えます。
「今日はやけに食い下がるな」
「ラスターさんに見せられた映像、思い出します。それに、家族、思い出した時、何故か、怖かった」
言い終わってから、しまったと口を塞ぎました。前半はともかく、家族の話は出すべきではありませんでした。酔ってるとはいえ、失敗です。
師匠ってば術に失敗して私を呼んじゃったの、結構気にしているようなんです。尊大で気にしてない風の態度をとるんですけど、気に病んでるのバレバレです。今も、あからさまに身体が揺れました。
「あっ、あの師匠、責めてる、ないですよ?! 良くは思い出せなかったし! 懐かしいなくて、あー! やっぱり、私もう寝るです! ねむい、ねむい」
アニムは逃げるを選択した。透明なウィンドウが見えそうです。逃げるの一択です。
ぐいぐいと力任せに師匠の背中を押しますが、全く動く気配がありません。どうしよう、これ。自虐モードに入られると、酔っぱらいでは上手く突っ込んであげられません。
「――たんだか?」
「え?」
「だから、どっか痛んだか?」
これは、胸が痛んだのとか影を背負って言うのを求められているんでしょうか。
返しに迷っていると、師匠の指が髪を滑りました。あぁ、そういうこと。
「頭、ちょっと痛かったかも」
「そうか。仕方ねぇな、ほら、優しいお師匠様が寝るまでは傍にいてやるから。とっとと着替えろ。着替え終わったら呼べよ」
どう仕方がないに繋がるのか、ちょっと良くわかりませんけど。OKってことですね!
一旦出ていこうとした師匠に慌てて、先回りをして鍵を締めます。師匠は目を開きました。いつもの三割増しです。
「ちょっ、アニム」
「出たら師匠、気が変わるかも。私、パーテンションの内側で着替える。師匠、ベッドに座ってて」
ドアの前に立ちふさがってやります。しばらく睨み合いが続きましたが、先に根負けしたのは師匠でした。我慢比べでは負けませんよ。年の離れた弟と妹の世話をしてきましたからね。
諦めた師匠は、頭をがしがしと掻きながらベッドに腰掛けました。置きっぱなしだった辞書を手持ち無沙汰にめくっています。元の世界から持ってきていた英和辞書ですが、師匠がこちらの世界の単語も書き添えてくれたんです。凄く助かっています。
「ししょー、薄着、寒くない?」
「そういや、居間に上着置いてきた」
黙って着替えると衣ずれが聞こえてしまうそうで、つい口を開いてしまいます。ワンピースを脱ぐと、同じような夜着を身に付けます。淡い水色のワンピース型の夜着は、少し薄めの生地ですが、不思議と寒くは感じません。
飲んだせいか、身体がむくんでブラジャーが苦しいです。ちょっと胸元はすーすーしますけど、薄暗いし、いつも通り外していても問題ないですよね。
「寒かったら、ししょー、ベッド潜ってて、良いよ」
「師匠を湯たんぽ代わりに使うな」
「ばれてましたか」
髪を縛っているリボンを解きながらパーテンションから出ます。ちょっと髪が絡まって手こずってしまいました。乾燥しているんでしょうか。お風呂上がりに良く乾かさなかったからかな。
師匠はベッドの反対側の際で足を組んでいました。振り返った師匠と目が合うと、今更ながら微妙な恥ずかしさが襲いかかってきました。不自然に目を伏せてしまいます。赤くなるな、私。そう言い聞かせても、早くなる鼓動は止められません。
「辞書、結構書き込み増えた。偉い?」
我ながら、なんて色気のない話題。大切なのはスキンシップであって、ムードではありません、うん。
ベッドを四つん這いで歩き近づきます。その姿勢のまま師匠の手元を覗くと、びっしりと異世界の文字が書き込まれています。
小雨のせいか、シーツがひんやりとしていました。これは、温まるまでに時間がかかりそうです。
「単語は大分覚えてきたみたいだな。余計なモノも多いけど。あとは――」
「あとは?」
師匠の柔らかい声が、途中で切れました。首を傾げて視線をあげると、瞼を半分に下げた師匠が睨んできていました。え、今は褒められていたのでは?
お尻を下に落ち着けて「ししょー?」と呼んでみますが、反応がありません。
「まさかの、寝落ち。お年寄り、夜ふかしきつい」
「だれがだ。さっきから、お前、オレを一体何だと思ってやがる」
あっ、復活した。言葉が返ってきたのは良いんですけど、師匠が手にもっていた辞書を振りかざしました。それ、小ぶりですけど、分厚さはかなりのモノですよ!
反射的にぎゅっと瞼が閉じます。が、いつまで待っても衝撃は来ません。うすーく瞼を開くと、寸でのところで止まっている辞書が見えました。その向こう側には、ぶすりと口を横に引いている師匠がいました。
『さっきから』の指し示すところに、全く心当たりは浮かんできませんでした。
|
|