23.引き篭り師弟と、子猫たちに息衝く魂たち1
「ここ私の部屋。未来に戻るまで、自由に使ってね。着替えや寝具なんかも、あとで持ってくるわ」
「ディーバさん、なにからなにまで。ありがとう、です。お世話に、なります」
案内されたのは、ディーバさんのお部屋でした。ホーラさんの部屋と同じ作りですが、すっきりと整理整頓されています。漂っている、茶葉の香り。ディーバさんは紅茶好きだって、センさんから聞いたことがあります。
てきぱきと動き回っていらっしゃるディーバさん。
「えと。私、ソファー、使わせていただいても、いいですか?」
「もちろんよ。あっ、ベッドにという意味なら、却下。私、寝相が悪いからベッドをダブルにしてもらってるの。だから、私とアニム、それに子猫ちゃんたちが一緒でも、充分でしょ? あっ、寝相で潰しちゃったらごめんなさい」
可憐なディーバさんが、寝相悪いって思い描けませんね。童話みたく、花の蕾の中で、すやすやと寝息をたてていそうですもん。ふむふむと癒しの光景に浸っている横から、聞こえてきた愛らしい笑い声。恥ずかしい。
うん、とりあえずカーテンをしめた方が良いですよね。
外はすっかり暗くなっています。かなり高い階にあるので、少しだけですが、月が近く感じられました。呼吸が浅くなります。師匠の瞳色の月を見ていると、胸が痛んで……。じわりと滲んできた熱。
唇を噛んで目を逸らしてしまいます。眼下では、壁が綺麗な光を灯していました。まるで、灯籠流しを彷彿とさせる情景です。
「あれは内側からだけ見える、守護魔法の一種なの。師匠《ウィータ》ちゃんの魔法、綺麗でしょ?」
「はい。師匠の魔法も、とっても、綺麗です。きらきらってして、胸が苦しくなる、です」
「圧倒的な存在値で、けれど、切なくなるような儚さもある。澄んでいて、世界に優しい。ウィータちゃんは、いつまでも変わらないのね」
私より低い位置にある、ディーバさんの微笑み。淡いけれど、心を揺さぶられる感情が映っています。師匠《ウィータ》の一番近くで生きてきた女性。ディーバさんは、師匠と何百年もの時間を、わかちあってきた。
師匠の魔法への共感を嬉しいと幸せになったのと同時、やっぱり、ばかみたいな焼きもちも浮かんできちゃいました。私、みっともない。
「けれどね。私、びっくりしちゃった。というか、嬉しいやらおかしいやらで、笑っちゃった」
ディーバさんの薄い唇から出てきたのは、小さい舌でした。ぺろって。
突然変わった空気に、ハテナマークが浮かびます。清廉な美しさから変えた色は、お茶目な可愛さで。女性と言うよりも、女の子です。助長するように、ひょいっと出窓に腰掛けました。ゆらゆら揺れる足。
ランプだけが頼りな薄暗い部屋の中でも、ディーバさんの瞳は輝いているのがわかります。
「だってね。センやウィータちゃんが十代の頃から――百五十年くらいの付き合いなのに、あんなウィータちゃん、見たの初めてだったもの」
「あんな? えと、大人気ない、言うか。短髪、いうか?」
「髪が短かったのを、目の当たりにして驚いたのもあるけれど」
つんと、鼻先を可愛らしく突っつかれました。まるで葉に乗る雨雫を、悪戯ではねさせるみたいに、楽しげです。愉快そうで、それでいて、嬉しそう。
優しい指先に、照れちゃいます。美少女の顔が近いんです、仕方がないですよね。
「恋って人を変えるのね、って改めて思ったの。ウィータちゃん、あんなに独占欲が強かったのねって。人にくっついてるのも、冗談口にしてたのも。ほら、ウィータちゃんて優しいのか意地悪なのかわからない性格でしょ? 昔から女の子に好かれるのに、本人は『恋? なんだそれ、魔法に関係あんのか』だったし」
うふふと可愛らしい笑いなのに、赤い瞳は三日月顔負けに細められていますよ。
色んな意味で一歩後ろに引いちゃいました。
そんな長い付き合いのディーバさんさえ、出会ったことのなかった師匠が嬉しいのと。期待を裏切らずもててきたんですね、師匠っていうので。
頬が熱くなったのは、羞恥よりも焦がれる想いが濃くて。私は、師匠からそんな言葉聞いたことありません。出会った時には、すでに『アニム』に心があったから? それとも、私に本音や過去なんて話す必要ないって考えてた?
「私、ディーバさんから、ウィータのこと、いっぱい、聞きたいです」
「もちろん! それで、あのね。ルール違反なのは、承知なのだけれど……」
言葉尻を濁したディーバさん。心なしか、足の揺れがせわしなくなりました。
可愛いなと、思わず笑みが浮かんでいました。元の時間で会ったディーバさんも、ここに来てから不安を拭ってくれたディーバさんも、センさんや師匠が大切にするのがわかるなって。しっかりしているのに、可憐で。どこか、ふんわりとした空気が、不安を纏ったのがちょっとだけど、伝わってくる。
答える代わりに、そっと膝上の手に触れました。ディーバさんがしてくれたように。
「未来では、私、その、センとは……まだ、一緒にいられてるのかなって。ほら、私、精霊だったのを、無理にこっちに存在固定してもらったし。ただでさえ、不老不死って子どもが出来にくいのに、不老不死同士だし、元とはいえ異なる種族だったから……セン、愛想つきちゃってないかって」
「センさんが、ディーバさん、いやってなる、想像出来ません! 天変地異起きても、絶対、ないですよ!」
触れているぬくもりから、小刻みな震えが伝わってきました。ぎゅっと掴んであげたいのに、ディーバさんの口から出た予想外すぎる不安に、本気で目を見開いてしまいました。だって、有り得ない。羨ましいなって思うくらい、愛妻家なセンさん。
素敵な夫婦、理想だなって、師匠への恋心を自覚する前から憧れの夫婦でした。
「センの気持ちを疑ってるわけじゃないの。けれどね、センはとても私を愛してくれるから、時々、いつかその反動が押し寄せるんじゃないのかってね、思ってしまって。ウィータちゃんは、馬鹿だろって笑うんだけど」
「ししょーってば。乙女心、塵ほどにも、わかってないです!」
怒りつつ。今は師匠への苛立ちよりも、ディーバさんの想いの方が大切です。恋する女性は、どこの世界でも、いつでも、大好きな人を思って悩むんですね。はたから見たら、驚くほど、熱愛なふたりでも。
じっと。潤んだ瞳で見上げられ、うひひと頬が緩んでいきます。ぎゅっと手を握っていました。
「センさんてば、いらっしゃる度、新しい写真、見せてくださる、ですよ。紅茶出すと、これ、奥さん、好きな味だなって、おっしゃるから、持ち帰って、貰うです。あと、奥さんからって、レシピも、貰うです」
「奥さん……」
「こっちが、照れちゃうくらい、らぶらぶで、よくホーラさんも、糖分過多―! って、暴れるですよ。ずっと、会いたくて、ようやくって時に、私、過去に、来ちゃって。でも、今、心強いです」
ディーバさんの名前も真名じゃないとは思うのです。けれど、師匠が『アニム』とさえ呼んでくれなかったことから、駄目なんじゃないか。それでも、大切な人たちの大事な存在に、応えたかったんです。
ちょっとでも伝わりますようにと、額をあわせました。貴女なんです。センさんが、大好きなのは、ディーバさんなんですよって気持ちを込めて。
「そっか……そっか」
「はい、です」
赤い瞳に涙をたたえて。ディーバさんは、月を背に、神秘的な笑みを浮かべられました。それは、同性の私でも、見惚れるような……胸をぎゅってされる色を灯していて。
そんなディーバさんの心を、少しでも安心させられたのなら、私も嬉しい。なぜか、私も涙ぐんでしまいました。
「ありがとう、アニム。私、アニムの声、好き。アニムの心が滲んでるから。もちろん、アニムも」
「大好きな人の、大切なディーバさん、好き、なってもらえて、嬉しいです。あ、私も、もちろん、ディーバさん自身も」
へへっと、二人して同じように笑っていました。今まではセンさん側のお気持ちしか知りませんでしたからね。だから、絶対的なお二人って先入観がありました。でも、やっぱり、年とか関係なくて。いつだって、好きな人の心の行方には、心を揺らされるんだ。
センさんも、同じなのかな。ディーバさんを精霊の世界から自分のところに縛って、恨まれてないかなって、師匠に零している夜もあったのでしょうか。
「ねぇ、アニム。廊下から、子猫ちゃんたちの声、聞こえない?」
「喧嘩してる、ですかね」
フィーネとフィーニスは、通信魔法の発動を手伝った影響か。また咳き込んでいたんです。なので、ウィータが治療、というか魔力を注ぐために、調整室とやらに連れて行ってたはず。
近づいてくる甘いはずの声色は、激しくぶつかりあっているように聞こえます。子ども同士の言い合いみたい。珍しい。フィーネとフィーニスは、ぷんすこすることはよくあっても、けろっと仲直りするのに。
「ウィータちゃんとセンは、子猫ちゃんたちの治療が終わったらでいいからって、上に呼ばれてたはず。ラスとホーラが、一緒ではないのかしら」
「ふたりとも、ししょーとも私とも、離れて、不安かも。甘えたくて、飛び出して、来ちゃったの、かもですね」
師匠と再会した際の、フィーニスの覚悟を決めたような言動。それに、がむしゃらに抵抗するフィーネ。二人の態度から、甘えたいなんて軽い気持ちじゃないのはわかっていました。
だから、出来るなら治療にも同席したかったのです。けれど、ウィータに先にディーバさんと部屋に戻ってろって背中を押されちゃったんです二人の気持ちが不安定で存在値も揺らいでいるので、時間がかかるって。
「フィーネ、フィーニス?」
ともかく。駆け足で扉を開けると。案の定、にらみ合っている二人がいました。でも、可愛いてしてし攻撃ではなく、低く唸りあっています。
その距離が、二人の心を映しているようで悲しい。
「じゃから、ありゅじと約束したのぞ! ふぃーねがひとりだけ、駄々こねて、ありゅじにもあにみゅにも、辛い思わせちゃ、駄目なのぞ!」
「ふぃーねはお約束してにゃいもん! ふぃーにすとふぃーね、いっちょにお話するって、前にお約束したでしゅ! だから、まだお話、めっなの!」
「屁理屈、言うないのぞ! あと七日の満月には、どっちみち、あにみゅは……!」
扉の音にも気がつかないくらいの興奮。石畳の廊下に、甘いけど鋭い声が響き渡っています。
幸い、この階と下の階、それに上の階は、ウィータをはじめとした関係者だけだと聞いています。実際、他の人影が現れる気配はありません。
淡い光を灯した魔法灯と、窓から差し込んでいる月明かり。どちらも、昼ほど明るくはないのに、涙をきらきらと輝かせています。小さな体から零れ落ちている大きな雫。ただ、呆然と佇んでしまいます。
「ふぃーにすのおばか! いわにゃいでって、お願いしてるでちょ?! 言霊にしちゃ、だめでしゅのよ! だめなにょぉ。ないちょなにょー!」
「じゃあ、ふぃーねはあにみゅがふぃーにすたちに、大事で悲しい内緒あってもいいのぞ?」
「やらー! ふぃーねは、あにむちゃだいしゅきだから、あにむちゃのこちょ、いっぱい知りたいでち! あにむちゃが一人でかなちいのは、いやら!」
じっと動かないフィーニスに反して、フィーネは短い手足をばたばたともがいてます。まるで、ままならない気持ちを、訳がわからないと、自分の中から追い出そうとしているみたい。
私もね、フィーニスとフィーネが悲しい秘密を抱えて、私を思って黙っているなら、苦しいよ?
抱きしめて、伝えたいのに。今ここで私が割って入るのは違う気がして、動けません。
「ふぃーね、むちゃくちゃなのぞ」
「ふぃーにすは、あにむちゃに嫌いってバイバイしゃれても、ないないっていなくなっちゃっても、いいんでちょ! ふぃーにすは、ふぃーねっくらい、あにむちゃしゅきないんでちょ! ふぃーにすは、ありゅじちゃまのが――」
乾いた音は鳴りませんでした。肉球がクッションになって。
けれど、横を向いて固まっているフィーネと、右手を振り下ろして微動だにしないフィーニスが、目の前で起こった行為を知らしめてきます。
初めて見ました。フィーニスが、フィーネの頬を打ったところ。フィーニス自身も驚いているようで、自分の掌を見つめて、ぼろぼろと泣き出しました。
「ふぃーにすだって、あにみゅもありゅじも、おんなじ大好きなのじゃ! 自分ばっかり、思うないのぞ!」
「ふぃーにすが、ふぃーねのこちょ、叩いた……ふぃーにすはふぃーねのこちょ、嫌いなったのでちょ」
うわんと、空気を揺らす声をあげたフィーネ。
フィーニスがぐしゃぐしゃっと?いた毛が、ふわりと風に乗って通り過ぎていきます。
「にゃんでそーなるのじゃ!」
「だっちぇ! ゆきやちゃもはなを叩いた後、もう嫌いにゃって、言ってたでしゅもん! ふぃーね、しっちぇるもん! あの時の、ゆきやちゃといっちょでしゅ!」
「ゆきやだって、本気ないって謝ってたのだって、知ってるじゃろ! それに、ふぃーにすは、ふぃーにすぞ!」
確かに、ありました。年子だった二人は、よく喧嘩していました。甘えん坊な理由から、競い合いまで。色んなことで。
甘えたな華菜に、ごうじょうっぱりな雪夜がイラついて。たまたま叩いたのを目撃して、雪夜を叱った覚えもあります。自分も叩かれたら痛いよね、だけど気持ちは出すのは悪いことじゃないから、言葉で伝えようねって。
華菜を叩いた手を包んだ瞬間、唇を噛んでいた雪夜がわんわん泣いて抱きついてきたのも、鮮明に覚えています。華菜を叩いた手が痛いって。
懐かしさとは違う感情が、鼓動を鳴らします。どうして、二人は知っているの?
「ふぃーねだっちぇ、ふぃーねなにょ! だから、あにむちゃにないないされたくないでしゅよ! 召喚獣ちゃだっちぇ、こわいこわいなのでしもん! あにむちゃは、おねーたまなくて、おかーしゃまでしゅもん! しょれで、いいにょ!」
「このままじゃ、どっちみち、なのじゃ! 南の森で、自分から、おかーしゃまなのか……おねーたまじゃないのって聞いたくしぇに! あん時、ふぃーにすがどんなにびっくりしたのか、まったくわかってなかったくしぇに! 今更、ずるいのぞ!」
南の森で。
よく覚えています、あの日のことは全部。
川の字で寝ていて、目が覚めた後でしたね。うっかり川の字と口走ってしまった私に、にやにやと笑った師匠が意味を尋ねてきました。親子だよって答えた私に、フィーネの様子がおかしくなった。私はお姉さんじゃなくて、お母さんなのかというニュアンスの疑問が落とされたんですよね。
フィーニスは妙に焦っていたけれど、自分の方がもうしっかりしてるからって、お兄さんだって主張してきたから、単純に可愛いなって思ってた。フィーネは納得いかないようだったのに、私は深く考えもせず、師匠の言葉に頷いていました。
「ふぃーにすたちが、アメノから大事奪った事実は、消せないのじゃ! あにみゅは、ちゃんとお話すれば、召喚獣のことだって、憎い思うないって、ふぃーにすは信じてるのじゃ。あにみゅは、ちゃんとのごめんなさいに、煩いは言うないのぞ!」
「しょんなの、ふぃーねだっていっぱいっぱい知ってるでち。あにむちゃが優しくて、あったかくて、ふわふわって気持ちくれるは。でも、ふぃーねは、あにむちゃないから、あにむちゃがどー思うかなんて、わからないでちょ!」
もうこれ以上聞きたくないと、フィーネは垂れた耳をぎゅうっと押さえています。怒った横顔のフィーニスは、両手で必死に剥がそうとしています。
ちっちゃく身体を丸めて、力の限りの抵抗には適わなかったようです。ぺちんと、黒い尻尾が、白いのを下に落としました。
「ふぃーねは、前からそうなの――あにみゅ?」
ぷいっと顔を逸らしたフィーニスの視線が、私のとぶつかりました。見る見る間に、大きくなっていくムーンストーンの瞳。フィーネも鏡写しになっていきます。
けれど、フィーニスは、すぐに戸惑いと諦めがまざったような眼差しに変わり。フィーネは、ぶるぶると目に見て明らかに震え出しました。
「うん。ふたりの声、聞こえたから、おむかえ」
そう返すのがやっとでした。頭の隅にあった可能性を上回る事実。向きあおうとしている、現実が怖い。浮かべた笑みも、体の硬直も、どんな感情からきているものか、自分でもわかりません。
フィーニスとフィーネが泣いているのが? それとも、考えていたかもしれないのに、目を逸らし続けていた可能性がある、愚かな自分が?
自分の思考の殻に閉じこもっていたのでしょう。背中を滑った柔らかさで、我に返りました。
「アニム。ひとまず、部屋に入ろう? 風邪、ひいちゃうわ」
「あっ、はい。フィーネとフィーニス、おいで?」
目を伏せて、羽をゆっくりと動かしているフィーニスと。頬を押さえて頭を振っているフィーニス。おいでと手を伸ばしつつも、二人が消えてしまいそうな気がして、つい床を鳴らしてしまいました。怯えているフィーネは、私が無理に近づけば逃げてしまうのは想像出来ていたのに。
案の定、フィーネのいやいやという仕草は大きくなってしまいました。それでも、動き出した足は止まってくれません。ひとまずフィーニスは捕まえられました。目を合わせてはくれませんが、抵抗はなく、むしろ密着する体温。
あっという間に、ブラウスに染みが広がっていきます。
「フィーネも、ね。可愛い顔が、涙で、ぐっしょりだよ? そうだ、一緒に、お風呂入ろうか」
ゆっくりと手を差し出しますが。その分だけ、フィーネは後ろに下がってしまいます。
呼びかけると、くるりと向きを変えてしまいました。
「もういいでしゅもん。ふぃーにすは、自分のこちょだけ話せばいいにょ! ふぃーねのこちょは、いわにゃいで!」
「ふぃーねはおばかなのぞ。ふぃーにすとふぃーねは、ひとつなのじゃ。別々だけど、おなじ存在で。だいじな、きょ――」
「しらにゃい! ふぃーねは、なんにもしらにゃい!! もういいにょ! ずっと、ここにいるんでしゅ! あにむちゃをお月さまに返さないし、未来にも帰らにゃい!!」
フィーニスの言葉を遮り、窓から飛び出してしまったフィーネ。慌てて身体ごと乗り出しますが、指先に尻尾の毛が触れただけでした。すり抜けていった、大切な存在。掴めなかった。
過去に飛ぶ直前もそうでした。フィーネの気持ちを察することが出来てなく……。リュックから写真を持って飛び出したフィーネを、掴めなかった。
私は、同じ過ちを繰り返してしまった。
「フィーネ!」
「アニムはここに。フィーネは私が追うわ」
小柄な体からは想像出来ないジャンプ力で、窓の枠に足をかけたディーバさん。ふわりと銀色の髪を、まるで羽のように広げ飛んでいっちゃいました。
浮遊魔法でしょう。頭から足先にかけて、くるくると文字を流している様子に、的外れにも天使みたいだなんて考えていました。
夜風が髪を舞わした一瞬で、ディーバさんの姿は見えなくなっていました。
私がしたことと言えば、夜の風景を前に、流れる髪を押さえただけ。
「あにみゅ。今夜こそ、全部、伝えるのぞ」
「ありが、と」
お礼は、絞り出した掠れた音でした。
腕の中から私を見上げていたフィーニスは、軽く頭を振りました。その頭を撫でると、目にたまっていたモノが、零れ落ちてしまいました。
すっと、腕から抜けた柔らかさ。瞬く間に、冷えていく腕。
フィーニスは、蒼い月を背に浮いています。小さな体が、より一層、儚い存在になっていく気がしました。
両手を差し出すと、ぽすんとお尻が落ちてきました。
「お礼は、言わないで欲しいのじゃ。だって……」
「フィーニスが、勇気出して、教えてくれるんだもの。嬉しいよ」
「違うのじゃ、あにみゅ。嬉しいなくて」
大きな瞳に宿っているのは、ひたすら憂いばかりしかない色でした。
縋りつく眼差しは、幼子のもの。でも、純粋に縋るのを許されていない、悲しみを耐える視線です。
泣かないで、なかないで。
お願いだから、自分の存在を疎ましくなんて思わないで。
それは、私がかつて願ったこと。この世界に来たばかりの頃、かけて欲しいと願っていた言葉です。どうしてか。掌に遠慮がちに触れているぬくもりが、引き上げてきた寂しさ。
「ごめんなのぞ。だけど、あにみゅが、許してくれりゅなら、今晩だけ、呼ばせて欲しいのじゃ」
「うん?」
師匠に返された真名をでしょうか。それなら、もう呼ばれていたから、違うか。
首を傾げて答えます。フィーニスに安心して欲しくて、軽い気持ちだったのかもしれません。フィーニスがどれだけの勇気を振り絞っていたのかなど、見えていないと承知しつつも。ただただ。大好きという気持ちだけを込めて、フィーニスに微笑んでいました。
フィーニスは、何度か深呼吸を繰り返しています。開いては閉じる。閉じては、半分開く、小さな口。
意を決したように、勢いよく上がった顔には、無理に浮かべた笑顔が浮かんでいました。それでも、震える口がゆっくりと息を吸い込みました。
「アメノねーちゃ、って」
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