21.引き篭り師弟と、別離のち出会い4
「ごめんなさい、ごめんなさい」
雨が降り注ぐ空間。雨が作り出す霧の中、ぼんやりとした意識で聞いたのは、とてもとても悲しい声で繰り返される謝罪でした。幼子が必死で口にするような、ごめんなさい。フィーネの「ごめんちゃい」と同じ色です。
ただ、性別の判断がつかない声色です。
誤らなきゃいけないとは思っているけれど……自分の行動は悪いことだって理解はしているけれど、どうしようもない、やるせない気持ちを消化し切れていない。でも、相手を傷つけたのはわかっている。複雑に絡み合った感情が溢れ出ています。
縋りついて来る体温を錯覚するよう。
「いたっ……くない?」
雨に混じって肌を叩いたのは、真珠でした。肌で弾けた真珠は、水となり散って行きました。痛みよりも先に声があがりましたが、反射的なもので、実際の感覚はありません。いえ、感覚というよりも痛覚でしょう。触れた感覚は、焦がしたてのマシュマロです。
そういえば、どしゃぶりの雨に打たれていますが、寒さはないですね。夢、なのでしょうか。私は何をしていたんだっけ。
「そうだ。ししょーとメトゥス、フィーニスの魔法、ぶつかりあって」
背中から溢れてきた魔法陣に、正面からぶつけられた禍々しい魔法陣。それに小さいけれど煌いた魔法陣。気を失う寸前に私たちを取り囲んだ大量の花びら。
ひとつひとつ、見たモノを確認していきます。うん、大丈夫。記憶はしっかりしてる。
あの大量の花びらは、カローラさんが絡んでいるのでしょうか。私の世界に迷い込んだ召喚獣を、この世界に連れ戻すため送られていたのと似た光景でした。
ということは――私は、次元を越えてしまったの?
さぁっと、全身から血が引いていくのがわかりました! なんてこと! でっでも、フィーネとフィーニスも一緒だから、ってそうだ!
「フィーネー! フィーニスー! ……ししょー!!」
ここが夢の中ならば、いくら叫んでも返事なんてあるはずない。承知はしていても、呼ばずにはいられません。ついぞ浮かんだ考えを否定するよう、師匠へ呼びかけても。雨を全身で浴び走り回っても、ただ水音が響くだけです。
うわっ! いたた。足を滑らせ思い切り倒れてしまいました。うぅ。
「ごめん、なさい」
先ほどの謝罪より、もっとたどたどしく。ひとつではなく、男の子と女の子、両方の声色が響きました。転んだのは、自分のせいだよ。と的外れな予感がする返事が出ました。
声が発せられている方に、手が伸びていきます。天から雨と一緒に降り注いでくる、胸を締め付ける音。
「どうして、謝るの? どうして、泣いているの? どうして……隠れているの? 隣に、おいで? ううん、きて」
姿の見えない子どもに、ゆっくりと語りかけます。怯えてしまったのか。声がぴたりとやんでしまいました。
私、何をやっているんだろう。
次元を越えてしまったのかもしれない。もしかしたら、次元の狭間なんて所に取り残されてしまっているのでしょうか。
色々考えてみるものの、これはやっぱり夢なんだとも思ったり。じゃあ、夢の中で姿の見えない『だれか』に呼びかけてに、無意味じゃないか。
矛盾する意見が交錯します。
「ごめんな、さい。怒ってもいいから、嫌いにならないで、置いていかないで」
俯いたのとほぼ同時でした。雨音に掻き消されそうな音量ですが、確かに聞こえた甘い願い。いつだったか。フードコートで駄々をこねた華菜に腹を立ててしまった私は、もういいよと手をほどいたことが、一度だけありました。あくまで置いてくふりだったのですが、雪夜だけと手を繋いでいた私を追いかけてきた華菜は、この世の終わりと言わんばかりに、「ごめんなさい」と「置いていかないで」を繰り返し縋ってきたんです。幼い子にとって、外に置いていかれる恐怖がどれだけのものかを理解し、私もごめんねと一緒に泣きながら抱きしめ続けた記憶があります。
思い出に浸っている場合じゃありません。というか、今思い出すと、歳相応とはいえ、すっごく幼稚だった自分が恥ずかしい。
この声はフィーネ、でしょうか。それにしては、舌ったらずではないような。
首を傾げると、花吹雪が起こりました。雨をすり抜けていく花吹雪は、幻想的というよりも脳を混乱させますね。思わず頭を抱えそうになった時、はらりと一枚の紙が膝に触れました。
これは――フィーネがなくしちゃったと言っていた、家族写真。
――アニム――
「カローラさん?! え、これは夢じゃ? って、私の記憶?!」
くるくると踊る花びらの中、一枚だけ淡く光っている花びらを見つけました。花びらの形で見分けをつけるのは難しいですが、無機質だけど、どこか優しい響きには聞き覚えがあります!
写真は握ったまま、そっと両手を差し出すと。カローラさんはお椀の中に沈むように、降り立ってくれました。
――アニムは、決心したの?――
何をと問われなくても、瞬時に理解しました。カローラさんは、師匠のために、私はこの世界に残るべきとおっしゃっていましたから。
ただ、カローラさんは師匠と違って、私に元の世界を忘れるべきだと明言してらしたので、意気揚々「はい!」とは笑顔で答えられません。
今しがた、私は自分に言い聞かせたのに。師匠の好意に甘えてちゃダメだ。私がすっぱり切らないといけないって。
ぐらついている心境を目の当たりにして。私は弱々しく頷くことしか出来ませんでした。
――……そう。アニムの判断を信じたいところではあるけれど。元の世界への未練は断ち切ったの? 家族のことは、納得しているの? 受け止める、覚悟を決めたと考えて良いのかしら――
どくんと心臓が跳ね上がりました。それは、決して、師匠がくれる心地よい弾みではなく、心を暴かれる恐怖から。カローラさんに全てを見透かされているのが、伝わってきました。
きゅっと締まった喉を見られたのか。カローラさんは、小さく溜め息をついた、ような気がしました。
「わっ私は、ししょーといたいです。この世界残る決意は、本物です! 家族への気持ちは、当然あるけれど、私、決めたです。遠く離れてても、両親や弟妹の幸せ願ってるは、本当。受け止める、覚悟は……なんですか?」
目を逸らしてたら説得力ないよ、私! でも、カローラさんからの視線、というか心はとても厳しいものです。厳しいは語弊がありますでしょうか。私の揺らぎを見定めようとしているような空気です。
ざぁざぁと。雨が鳴る音だけが耳に届いてきます。自分の心臓さえ、血を送ることを忘れてしまったように、静かです。
――やはり、まだあの子、全てを話してはいなかったのね。全く。幼い頃、守護精霊に正面から向き合ったり、少しすれてしまってからしれっと事実を口にしていたりのあの子とは思えない、臆病っぷりだこと。それだけ、貴女のこと、想っているのね――
ふっと、空気が和らいだかと思うと、カローラさんが淡い光を纏いました。まるで、苦笑しながらも、どこかあたたかい気持ちで語っているような。
そうだ。母さんみたいなんだ。もちろん、本当のお母さんだとは思ってません。カローラさんは個として認識される存在ではないとおっしゃっていましたし、何より師匠が花びらから生まれたって、ちょっと想像し難い。
瞬きを繰り返しても、カローラさんの呆れは消えません。
「カローラさんも、ししょー、大切なんですね」
――はたして、アニムとあの子が抱くのと同義かは判断つかないけれど。あの子は私たちにとって、かけがえのない存在だから――
呆れが戸惑いに変わった。感情の機微が顕著なカローラさん。自分の大切な人を大切と思ってくれる方。とても嬉しくて、緊張感も忘れ、頬が緩んでいきました。
かけがえのない存在。
なんて素敵な言葉なのでしょう。語学としては知っていたけれど、始めて出会った言葉のように感じられます。心が込められた言葉を、しっかりと胸に刻みます。
「それと。ししょー、全部話してくれる、予定でした。けど、フィーネが、飛び出しちゃって。それ、追いかけてたら、メトゥスが襲ってきて。気がついたら、ここにいて――」
はっ! そうだ、こうしている場合じゃない! フィーネとフィーニス! っていうか私は一体どういう状況なの?!
途端、汗が噴出してきました。フィーネは弱ってたし、フィーニスだってメトゥスの魔法を直に受けて、無事じゃないかもしれない!
――そうなの、ね。じゃあ、意地悪はこのくらいにして、少しだけ手助けをしてあげるわ。幸い、媒体はいくつか持っているようだし――
「意地悪、ですか。カローラさん、感情ないなんて言ってたですけど、やっぱり人間くさい、ですよ」
内心、大慌てだったのが、カローラさんの『手助け』という言葉にすっと落ち着きを取り戻しました。不思議と安心できる、頼っていいと思ってしまうのは、甘えからなのでしょうか。
なんだか色々悔しくて、つんと唇が尖ってしまいました。ぶすくれた私がよほどおかしかったのでしょうね。カローラさんからは、ころころと鈴を転がしたような笑い声があがりました。それにまた、恥ずかしくなってしまいます。やっぱり、人間くさい。
――あの子の魔力を魂に秘めたアニムだもの。私たちだって、干渉を受けやすいのだから、仕方がないのよ? 人で言うなら、不可抗力、というやつかしら――
うーん。師匠の魔力だと、何故カローラさんたちに影響を及ぼせるのか。師匠の魔力がとんでもなく凄いという含み? わからん、です。
気がつけば、いつの間にか小雨になっていました。足元は見渡す限りの水溜りです。話に夢中で気がつきませんでしたが、花吹雪もやみ、ほとんどの花びらが水面に浮いています。とても神秘的な光景です。青空が広がっていれば、感嘆の息が落ち続けるに違いありません。今でも、充分綺麗だけど。
「干渉、よくわかんない、ですけど。手助け、よろしくお願いします」
――えぇ、任せてちょうだい――
カローラさんを掌に浮かせたまま、ぺこりと頭を下げます。
そんな私に、カローラさんは笑いを含んだ、けれど凛とした返事をくれました。顔をあげると、カローラさんはふわりと上空に昇っていきました。家族写真も、一緒に。
――アニム。忘れないでね。これが最後の機会《チャンス》。だから、お願い。あの子たちと向き合ってあげて。貴女がこの世界で何を感じ、どう過ごしてきたのかを思い出してね――
「最後って、カローラさんと会える、最後いう意味、ですか?!」
――アニムの決断次第では、こうして言葉を交わすのは最後でしょうね。けれど、覚えていて。決断というのは、己の気持ちだけで辿り着けるものではないの。手の届いていない部分を、見つけてあげて。そういう奥は、触れようと必死にならなければ、辿り着くことは不可能だから。何より、貴方たちが導き出す答えに、『お互いが』後悔のないよう……――
手の届いていない部分を、見つける? 私は、この世界に残りたいと願っています。けれど、その決断は。今の私が持っている決意では、師匠を後悔させるという意味?
わからないよ、カローラさん。もっと、話を聞かせて!
天に腕を伸ばした一呼吸後、大量の雨が降り注いできて。ぎゅっと瞼を閉じてしまいました。音を立てて弾ける真珠に混ざって届いたのは、やはり、謝罪。
「ごめんにゃしゃ」
「ごめん、なのぞ」
けれど。最後に届いたのは、私も泣きたくなる声色でした。
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