引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

  

18.引き篭り師弟と、不吉な訪問者3


「わっ!」

 何度目の揺れでしょうか。自室を出てからも大きな揺れは続いています。
 転位魔法を使う間は無防備になってしまうんです。なので、状況が把握出来ない現状、歩いて談話室に降りなければいけません。
 やっと階段まで辿り着いたというところで、一際地面が唸り、足を踏み外しそうになってしまいました。手を繋いでいる方とは逆の腕で、師匠がぐいっと抱き寄せてくれたので、事なきを得ましたけれど。

「アニム、オレにしっかり掴ってろ。ひとまず揺れがおさまるまで、ここにいるか」
「うん」

 階段の脇で、私を抱きしめつつ魔法映像を作り出した師匠。いつもは安心する温度が、今は胸騒ぎしか生み出しません。
 表に出してはいけないと自分に言い聞かせますが、どうしても袖を握るに止まってしまいました。

「んだよ。普段みたいにしがみついて来いよ。師匠にのっかかって、昼寝してるぐらい」
「あれはっ! ししょーが、二の腕掴んで、倒すからでしょ。それに、眠りの魔法かけてる、思うくらい、すっと眠れるんだもん」
「……一応言っておくが、魔法香と違って、眠らせる魔法はあまり脳によくねぇから、使ってないんだけどな。もうひとつ付け加えておくと、喜んでいいのかはかなり微妙な台詞だぞ。ソレは」

 はっ。つい変わらずな会話をしてしまってます。師匠のペースに持ち込まれてますよ。余裕の師匠に安堵しつつ、現実逃避している自分に腹が立ちます。

「ししょー。先に談話室、戻っても、大丈夫。私、あとから、追いかける。早く、ホーラさんたちと、合流した方が、良くないかな」
「あほアニム。オレは傀儡(かいらい)の時みたいなの、二度とごめんだぞ」
「そーだけど。でも、結界壊れるは、よっぽどでしょ?」

 薄い開かれた眼に射抜かれ、怯んだものの。私よりも結界の方が大事なのではと、食い下がります。
 師匠から距離をとろうと腕を突っ張ってみますが、すぐに肩を抱き寄せられてしまいました。しかも、かなりの力で。

「結界なんざ、後からどうにでもなる。結界が守っている本人に被害が及んだら、元もこもねぇだろうが。大体、侵入者――メトゥスの狙いは、アニム、お前なんだからな」

 少し低めの声に、びくりと肩が跳ねました。自分が襲われる恐怖でもなければ、凄んできた師匠にでもありません。
 結界が守っている本人。その言葉が持つ裏に、反応してしまったのです。
 たまごが先か鶏が先か。そんなレベルの話かも知れません。けれど、今の私にとっては、結界に守られている私なのか、それとも私ありきの結界なのか、という点です。

「ごめん、です」
「悪い。お前をびびらせたい訳じゃねぇんだ。ただ、自分が標的だってのは、自覚してて欲しいんだよ。絶対、オレが、アニムを守るからさ」

 魔法映像に映った結界は、割れたガラスのようでした。降っている大雨に混じった魔法粒子が、きらきらと七色の光を纏っています。それだけ眺めていると、美しい光景です。
 もうひとつ。作りだされた魔法映像に映りこんできたのは、ラスターさんでした。

「ラスター、外を頼む。メトゥスの魔力を追ってくれ。歪んだあいつの性格を考えると、直にこの家を襲ってくるとは考えがたいからな。手の込んだ罠でも企んでるに違いねぇ」
「わかったわ。それはそれとして。外界の空気や魔力が流れ込んできているけれど、アニムちゃんは平気なの?」
「あぁ。アニム自体は、もう外に出ても支障はないからな」

 そうなんです。二ヶ月前から、体質的には結界外へ出ても問題はなくなっています。ただ、メトゥスさんの件があったので未だに外出自体は禁止なんですよね。
 魔法映像には長い槍を練り上げているラスターさんが映っています。ホーラさんは二つに束ねた髪が揺れているのだけが見えています。

「本当に? それにしては、アニムちゃんの顔色良くない気がするけれど……」
「こっこれは! びっくりしてるだけ、です! 怯える乙女!」

 伺うように向けられたラスターさんの顔、があまりにも心配の色が濃くて。拳を握って、意味不明な言い訳をしてしまいました。
 ただ、声がうわずっているし、掠れているしで、中途半端なボケになってしまいましたけど。そんな自分に気がついて、嫌な汗が吹き出てきます。

「あん! 大丈夫よ、アニムちゃん! あたしがむっちりどっぷり守ってあげるから!」
「ひとまず突っ込んでおくのですよ。むっちりもがっちりも使う場面が間違ってるのです」
「いいのよ! あたしの愛情とたくましさが伝われば! だから、アニムちゃんも大船どころか戦艦に乗ったつもりでいてね!」

 ラスターさんもホーラさんも。あえて心の揺れには触れず、おどけてくださいました。腰に手をあてて胸を張ったラスターさんがくれたのは、安堵。落ち着いている皆さんを見ていると、安心してきました。
 けれど、どうしてでしょう。かたくなった体は、思うようには動いてくれません。ううん。理由なんてわかりきってる。

「口だけと言われねぇよーに張り切ってこい。オレはアニムを守るのと森全体にプレッシャーをかけるのに集中するから、他の処理は全部二人に任せた」
「じゃあ、あたしは召喚獣に森を探らせるのです。食前の運動にちょーどいいのですよ」
「ホーラ。あんた、あれは食事だったんじゃないのかしら……?」

 魔法映像を挟んで、会話がテンポよく交わされます。冗談を交えながらも、さくさくと決められる役割と手順。私はどちらにも、ただ耳を傾けることしか出来ません。
 しかも……あのメモ書きが頭にこびりついて離れてくれないので、右から左へと抜けていってしまいます。瞼を閉じてみても、映像として脳裏に焼きついている文字は、容赦なく心を責めてきます。

「ししょー。それにホーラさんにラスターさん。私にできる、ありますか?」

 せめて、魔法陣や魔法道具を使うお手伝いが出来ればと申し出たのですが。師匠に鼻を掴まれてしまいました。
 えぇ、私だって理解してますけどね。足手まといだって言うのは。

「あほアニム。さっきも言ったが、今回狙われてるのはお前なんだぞ?」
「そーよ、アニムちゃん。しかもメトゥスは、今までアニムちゃんが出会ってきたような魔法使い、というか男とは違って、すんごく粘着質で嫌味なやつなんだから! ウィータに対する執着心とも対抗心とも取れる不気味さといったら、もう」 
「メトゥス、いう人は、どーして私を、狙うです? 弟子狙うは、ししょーへの、嫌がらせ? それとも、ししょー憧れてるから、魔法使えない弟子の私、気に食わない?」

 問題はそこです。吹雪の中、初めて聞いたメトゥスさんの声。アラケルさんとの魔法戦で、師匠がアルス・マグナを使った際、直接頭に響いてきたのを思い出します。

――おかしいですよねぇ。実に、おかしいです。あれほどの魔法使いが、周到に準備整えて発動する召喚術を失敗するなんて。君も薄々感じているんですよねぇ?――

 あれはどちらかというと、私を攻撃的に見るのではなく、師匠への不信感を煽るような台詞でした。私が師匠に騙されているというニュアンスにもとれます。傀儡の時はさすがに命を狙われましたけど。
 だけれど、メトゥスさん本人は師匠と対峙した。まぁ、私なんて傀儡で充分だと判断された可能性の方が高いでしょうね。
 とはいえ。どんな感情を向けられているかによって、対処法も変わってくると思うのですよ。
 私なりに考えての発言だったのですが、師匠たちからは一向に返事がありません。

「ししょー? 即答できないくらい、複雑な事情? 根深いの?」

 気まずそうにそっぽを向いている師匠の襟元を引っ張ります。顎先まである長い襟に顔を埋めるようにしている師匠は、どう考えてもだんまりを決め込む姿勢です。わずかに熱を持ったような目元は気になりますけど、私を完全に視界から外しちゃってますよ。
 ならばと、魔法映像に向き直ると。なぜか床に倒れこんでいるホーラさんが遠くに。そして、おなかを抱えて爆笑をしているラスターさんがいらっしゃいました。ラスターさん、爆笑とは言っても、声も出ないようです。

「あの、私、そんな、おもしろおかしい、言ったです?」
「ごっごめんなさい。くはっ! おかしいのは、アニムちゃんじゃなくって、ぷぷっ、ウィータの、あの反応っ……!!」

 え? 私ではなく、師匠ですか。師匠を見上げると、先ほどとは違って、物凄く不機嫌そうに眉を寄せていました。あぁ、これは切れる直前の空気です。こめかみがぴくぴくしちゃってます。
 心なしか肩を抱かれている手に、力が込められた気がしました。痛くはないけど、心臓に悪い。

「そうそう。アニム、ウィータのはとっても根深いのですよ。ぷぷぷー。深すぎて窒息しそうなのです。アニムが助けてあげてくださいなのです。あっ、でも、手を引っ張られてがんじがらめにされたら、アニムも危険なのですー! むしろ、ふたりで溺れてしまえーっていうか、もうお砂糖の海に浸ってますですよねー」

 ホーラさん、きゃっきゃとはしゃいでらっしゃいます。
 えっと。今は緊迫した状況ではないのでしょうか。いつもなら自分の突っ込みが原因かなとも反省してみるのですけれど。現在に限っては、全く心当たりがありません。
 と、師匠が大きく息を吸い込みました。危ないと慌てて両耳を塞いだ直後、師匠の瞼がぐわっと開きましたよ。

「うっせぇ!! てめぇら、さっさと表に出やがれっ!! メトゥスの奴に先手打たれてたら承知しねぇぞ!!」
「はーい、はいなのですよー」

 おふ。響き渡った師匠の声に、くらくらしちゃいます。すっと距離をとろうと体を引くと、すぐさま抱き寄せられてしまいました。みっ密着しすぎて胸がつぶれて痛いのですが!
 そんな私の内心など知らず。師匠はナイフのような目つきで魔法映像を睨んでいます。まぁ、睨まれているホーラさんはものすっごく素敵な笑顔なのですけどね。ちなみにラスターさんはホーラさんの後ろに隠れてます。全く隠れてないですが。

「アニムちゃんの口から根深いとか言われて、情けなくなっちゃったのかしら! 純真無垢に疑問をぶつける子猫ちゃんたちがこの場にいないのが残念だわよ! というか、八つ当たりはやめて欲しいわ!」
「ラスター、お前覚えてろよ。大体、子猫たちはともかく、アニムが今のやり取りの真意を理解したところで、落ち込むのはお前だろうが」

 ふんっと。可愛い調子で鼻を鳴らしたのは師匠。とんでもないしたり顔です。どや顔です。私の口からって……私、師匠がへこむような内容、発言しましたかね。
 師匠の襟元を軽く引っ張ってみます。っていうか、師匠。はっとしたってことは、完全に私の存在忘れてたでしょ。

「つまりは、どーいう意味合いで、私、狙われてるの?」
「アニムちゃんがね、たった一人、ウィータがあいし――」
「とっとと行きやがれ!」

 口早に。ラスターさんがなにやら肝心な単語を言いかけたところで、魔法映像が消されてしまいました。しかも、激しく電気を発しながら。
 結局、私がメトゥスさんに狙われる理由、わかりませんでしたよ。
 しんと静まり返った空気の中、師匠の荒い呼吸と雨音だけが耳に入ってきます。窓の外を見なければ、いつもとなんら変わらない日常です。

「ったく。緊張感のねぇ奴らだな。アニム、とにかく地下に行くぞ」

 腰を引き寄せられ、私も師匠の腰へ腕をまわします。ちょっとあたたかく感じられる師匠の体温。瞼を閉じると、再び、辞書に挟まれていたメモが浮かんできてしまいました。雨音も、あの文字を鮮明にします。
 えもいわれぬ恐怖がわきあがってきて。口を動かしていないと、不安に飲み込まれてしまいそうです。

「ししょーは、ラスターさん、言いかけてたの、想像ついた? メトゥス、さんが、私狙う理由、みなさんは、知ってるのかな」
「……ラスターは傀儡事件の際、直接メトゥスから聞いてやがるからな。ホーラは……あいつは、まぁ、聡いから。つーか、メトゥスに敬称なんざ付けなくて良い」

 相変わらず、師匠ってば自分が隠したい部分があることには、明確な返答くれません。
 家の中だからでしょう。小さな魔法陣が現れてすぐ、転位が完了しました。
 足をついたのは、地下一階の大広間。大理石に直接魔法陣が刻まれた場所は、余計なモノは一切置かれていません。薄暗い空間には、花を模った大き目のランプが数個、灯りをともしているだけです。ですが、師匠が魔法杖を床に打ち付けると、床の魔法陣が一気に光を立ち昇らせたので、視界は充分にクリアです。
 私が気にしているのは、視界よりも――。

「あっあの、ししょー、この体勢は、イッタイ」
「少しの間だけ、黙ってろ」
「うい」

 頭上から降ってきた低い声に押され、素直に頷くしかありませんでした。
 魔法陣の中心に立っている師匠は両腕を前に突き出しています。手には杖が握られ、魔法陣の真ん中と触れ合っている杖先からは、水音がしています。泡も湧いてきています。
 神秘的な光景に、ほうっとしているのはしているのですけど……。私、師匠の前に立たされます。しかも、師匠の腕に挟まれているというか、師匠の腕に胸がのっているというか。とにかく、背中からも横からも師匠の体温が流れ込んでてきていて、物凄く恥ずかしいです。
 私が一人混乱している中、大広間は宇宙空間のように変わりました。足元の床もなくなったかのような感覚に、あっと声があがってしまいました。実際、不思議な浮遊感があります。

「大丈夫だ、アニム。オレが触れている限り、落ちていったり飛んでいったりはしねぇから」
「ししょーから、離れたら、まっさかさま?!」
「おぅ。だから大人しくしてろ」

 ちょっと愉快そうな調子で笑う師匠が恨めしいです。師匠が私を離すとは考えにくいですが、大人しく従っておきましょう。
 前に突き出されていた片方の腕が腹部に回ってくると、自然と力が抜けていきました。後ろに体重をかけると、その分だけ、師匠の腕も距離を縮めてくれました。
 あぁ。当たり前のように思える仕草が、たまらなく切ない。これは、『私』が受けて良い幸せなのでしょうか。

「じゃあ、ここは、一番安全かな」
「いや。結界が正常ならまだしも、メトゥスが内側にきちまっている以上、場所が特定されるのも時間の問題だろう。それに、この程度の空間魔法なら、あっさりと適応してきやがる実力はある奴だ」

 夢の中、カローラさんに見せられた過去が思い出されました。
 そうだ。メトゥスという人は、どこかに閉じ込められながらも、師匠の邪魔をしたんですよね。異世界である私の世界にまで魔力を送り込んで、あまつさえ召喚獣を弄んだ人。本当に一体全体、何がしたいのでしょう。
 辞書のこと。師匠が失敗した召喚のこと。それに――今回の一件に、『アニムさん』が絡んでいるのか。聞きたい謎は山ほどあるのに。何一つ師匠に問いかけられません。
 師匠を信頼していない訳じゃない。なら何故。私はみっともなく取り乱したり、自分が傷ついたりするのが嫌なだけ? だから結局、何一つ進展させられない。

「ったく。悲壮感漂わせてんじゃねぇって。大魔法使いウィータ様が守ってやってんだから、もっと肩の力抜けよ。それとも、オレじゃ不満か? 弟子に疑われるなんて、お師匠様は落ち込んじまうよなぁ」
「違うよ! ししょー、信頼してる! 世界で一番、頼りにしてるし! ししょー、負けるなんて、絶対ない! 私、弟子として、出来るの少ないけど、気持ちだけは――」

 痛いところを的確につかれたようで。体温が一気に上昇していくのがわかりました。しかも、弟子だなんて。自分が弟子としてか、はたまた私個人として狙われているのか答えてくれないのに、卑怯ですよ。師匠。
 だけど、師匠の顔を見て言えていない私の方が、卑怯者です。下に向けた顔だって、ぐちゃぐちゃです。

「おっおい、冗談だってば。やっぱり、お前、少しどころか、かなり様子がおかしいぞ? 談話室から部屋に行くまでの短時間に、何があったんだよ」

 両手がふさがっているからでしょう。項垂れた頭に、師匠の顔が寄り添ってきます。耳をくすぐる慌てた声色に、余計泣きたくなってしまいます。
 ぎゅっと。おなかにまわされた腕を掴むと、綺麗な袖に皺が寄りました。

「私、わからないの。もう、なんだか、わからないの。わからない自分に、腹が立って、でも、わからないの。何が、ほんとで、なにを、芯に進めばいいのか。私はだれで、ししょーは、どうして、私を弟子に、したのか。私は、どうなれば、いいの?」

 言いたいことだけ言い放って。溜め息だけつきました。支離滅裂なのは重々承知しています。
 魔法陣から発せられる鼓膜を揺らす音波に、耳鳴りが起きそうです。足元にある真っ暗な空間には、蛍ような星のような小さな光があります。
 師匠がこの大きな、どこまでも広がっている強大な魔法陣なら。私はその魔法陣に吸い寄せられている、あの小さくてあっという間に消えてしまいそうな存在の光なのでしょう。焦がれて近づいて、いくら心地よい引力と温度に浸っても。風が吹けば散って、だれだか判別がつかなくなるんだ。

「だーかーらー。アニムの心を揺らしている大元の原因はなんだっつーの」
「ししょーは、理由がないと、こたえてくれないの? ししょーなら、私なんかの心、手に取るよう、わかるんじゃないの?」

 って!! ぞくっと首筋に走った電気に、全身鳥肌がたちました!! 今のシリアスシーンで、首筋にキスされるとか、予想外どころのお話じゃないんですけど!
 どくどくと張り裂けそうな心臓は放っておいて。きっと振り返りざまに師匠を睨み上げてやります。が、師匠は悪人顔で笑っているじゃありませんか。押さえた首筋には、まだ師匠の唇の感触が残っています!

「薄暗い空間で、無防備に首筋晒してやがるアニムが悪いんだからな」
「しょっしょーがないでしょ?! 下向いてる。髪、二つに結わってる。露出するは、自然! こんな状態で、よくえろえろししょー、なれる!」
「オレはいつだって、アニムが、欲しいと思ってる。全部、手に入れたいなんて、年甲斐もなく考えてる。悪いか?」

 ひっ開き直った!! しかも、悪人面一変で、切なげな瞳なんて……! 暗い中で、師匠のアイスブルーの瞳は、より綺麗に見えます。けど! 潤っている眼に全てが飲み込まれていきます。
 バカみたいに口の開閉を繰り返す私を置いて。師匠の口は、小さく呪文を唱え出しました。完全に置いてけぼりです。ついていけません、私の思考回廊。
 やっとこさ喉の震えがとまったのは、足元の魔法陣の光線同士、空いた隙間が水面のようになってからでした。
 おなかを支えていた腕が浮き、一瞬、ぎゃっと肩が跳ねちゃったじゃないですか。でもしっかり足の裏は水面についています。よかった。

「……ししょーは、ずるいよ。いつも、一歩手前にいて、するっと私の指先からも、逃げるの」
「ぬかせ。いくらオレが天才だろうが、アニムの気持ちばっかりは全く読めないんだよ。そもそも、掴んだと思ったのに、するりと抜けていくのは、お前だろうが。いや、お前の告白はきちんと受け止めてるけどさ。そーじゃなくて、つまり、諸々つーか」

 額を擦りあわせた状態での師匠の睨みは、かなりの迫力です。投げやりな口調に反して、頬を撫でてくる手つきは、泣きたくなるくらい、優しいなんて……反則じゃないですか。
 私の心なんて単純なのに。この世界に残るかどうかの不安だって花畑でぶつけたし、大好きだってありったけの想いも伝えました。この世界に残る決心だって、した。
 残っているのなんて、『アニムさん』とついさっき発見してしまったメモのことだけです。

「ししょーは、告白、くれないの?」
「なっ! この状況でか?! いや、まぁ、メトゥスのことだから、オレがはっきり告げてないのなんて予想の範疇(はんちゅう)で、そこを攻めてきやがる可能性も高いよな。って、オレとしては、メトゥス絡みで口にするなんてのはもっての外だっつーの。だが、アニムが死にそうな様子がオレのせいなら――」

 えーと。私、今すぐとか瞬時にとかは要求してないのですけどね。
 師匠が面白いポーズで一歩下がり、腕を組んだかと思うと。自分の言葉に頭をぶんぶん振って拳を握り締めていらっしゃいます。たぶん、羞恥と戦ってるんだと思います。襟足からちらちら覗く肌が、鮮やかに染まっています。最後にはヤンキー座りになって両手を震わせながら「どうする、オレ」みたいな呟きを零しちゃってます。
 呆気に取られちゃってます、わたくし。と同時に、どうしようもない笑いがこみ上げてきました。

「あはっ」
「あのな、アニム。えーと、だな」

 立ち上がって肩を掴んできた師匠が、あまりにも切羽詰まっていたから。それが引き金となって大きな笑い声が飛び出していきました。
 だって、だって。つい数分前まで魔法を使役していた師匠は、凜としてかっこよかったのに。私の気持ちを考えてくれている師匠は、慌てふためいているんですもん。真剣に、しかも盛大にテレながらも、向き合おうとしてくれている。
 うん。ひとまず――とにかく、メトゥスの件が片付くまでは、辞書や自分の存在については胸に締まっておきましょう。大丈夫、こんな師匠だもん。私がちゃんと口にすれば、花畑の時みたいに答えてくれるはず。

「……アニム。お前ってやつは、どーして、そう予想の斜め上を走っていきやがる」
「私、ししょーに関しては、まっすぐ。笑ってるのも、嬉しいから、だよ?」
「いや、その嬉しいの意味が不明なんだよ」

 ぼりぼりと後頭部を掻いた師匠に、ちょっとだけ申し訳なくなりました。大丈夫。メトゥスを追い返したら、とことん問い詰めてやるんだから!
 打って変わって満面の笑みになっているだろう私の頬を。瞼を落とした師匠が、引っ張っています。それでも、にやけは止まりません。というか、笑みは深まるばかりです。

「よし、ししょー! ラスターさんたち、応援、いくです!」
「あー、はいはい。アニムさんのおっしゃる通りにいたします」

 背中を丸めた師匠が可愛くて、ついまた笑い声をあげてしまいます。眉を跳ね上げた師匠に力強く握られた手を、さらに握り返してやりました。
 メモに書かれた……私の『本当の名前』は。そっと胸の奥深く仕舞っておきましょう。




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