18.引き篭り師弟と、不吉な訪問者2
「あれ、調合部屋のドア、開いてる」
魔薬や魔道具を生成する調合部屋は、二階の奥にあります。師匠の寝室の向かいなので、私の部屋とは反対方向にあるのですけど。師匠のことを考えていたせいでしょうか、迷子というか曲がる場所を間違えてしまったようですね。
調合部屋の扉が空いていなければ、そのまま師匠の寝室に入ってしまっていたでしょう。入室禁止とは言われてませんが、マナーですもんね。
「ししょーが、開けっ放し、珍しいな」
もしかしてフィーネとフィーニスが帰ってきているかもしれないと覗き込んでみますが、二人の愛らしい気配はありませんでした。
ふと、足元を見下ろすと。ちちっと高い鳴き声を零しながら、リスが走り抜けていきました。森の動物が入りこんでくるのは、特異なことではありません。ほっこりと、小さな背中を見送ります。
「それにしても、さすがに、雨の日は珍しいかも。どこから、潜り込んだのかな」
雨を受けている窓も閉まっているようです。念のためと、窓の鍵も確認してみますが、やはり、ちゃんと留め金は降りていました。
くるりと部屋を見渡します。コーヒーメーカーのような、丸いガラス瓶たちが連なった器具の中には、琥珀色や薄紫色の液体が溜められています。ドライアイスのような白い煙を静かに生み出している試験管も、並んでいます。
本がぎっしりと詰まった本棚。壁一面に張られた魔法式図に世界地図。さして広くない部屋にある机は二つ。
所狭しと積まれた本には、走り書きのメモが何枚も挟まれています。
「不思議だけど、不思議じゃない、光景」
窓際に置かれた椅子に腰掛けて、部屋を眺めてみます。薄暗い部屋に煌いている石を手に取ると、一瞬だけ、輝きが強まりました。
エルバの香りのような、ちょっと薬っぽいような。独特の匂いが、鼻腔を刺激してきます。
魔法陣が刻まれた重い石版に指をはわせると、指の腹におうとつを感じました。召喚された当初は、夢のような光景の中、本当に自分がいるのかを確認したくて、よく触れていましたね。柔らかい指を刺激してくる感触、魔法陣をなぞると言いようのない感情が湧いてくるんです。
「私の存在、この空間、馴染んで見えてる、かな」
魔法版の上に突っ伏すと、頬にひんやりとした温度が染みてきました。目線に見つけたのは小さな天秤です。私の指先で揺らされた鎖は、小さく軋み音をあげました。
そっと瞼を閉じると、調合部屋で寝るなと頭を小突いてくる師匠が隣にいるような気がしました。きっと、まだろくに言葉もしゃべれなかった頃、フィーネやフィーニスと一緒に、ここに座って師匠の作業を眺めていた記憶からでしょう。
黙々と作業を進める師匠の姿を、ただじっと眺めているのが好きでした。師匠は時折振り返り、苦笑を浮かべていましたっけ。思い出したように、魔道具を説明もしてくれましたけど、小難しくて頭を抱えたのも良い思い出です。
「寝ちゃってると、あったか毛布、かけてくれたっけ。フィーネとフィーニスも、寄り添ってくれて、ふわふわ、あったかかったなぁ」
今の掌サイズよりさらに小さかった二人は、頭に乗ってきたり首元に潜り込んで来たりと、温度をくれました。寝息がくすぐったかったのを、覚えています。
「傍で人寝てると、集中力下がらないか、聞いたら、ししょーを舐めるなよって、にやりって笑ってくれたな」
それでも。とても冷え込む夜は、抱きかかえて部屋に送ってくれたっけ。フィーネとフィーニスも一緒に。ウーヌスさんは二人に「式神が主に運んでもらうとは何事ですか」とお説教していましたね。師匠は「ウーヌスだって、昔一度だけあったよな」って悪い顔で笑っていましたっけ。
そろそろ出なきゃと立ち上がると。本棚の中段に置かれたビーカーが目にとまりました。大き目のコーヒーカップほどもあるビーカーです。師匠はしょっちゅう、これをカップ代わりにしていました。魔薬に使うエルバを掬いあげて飲んでたんだっけ。
漫画の理系男子ですかと突っ込みを入れたのも懐かしいですね。それから、私が紅茶を淹れるようになったんです。
「小さな部屋にも、ししょーとの、思い出、いっぱいだね」
はふっと吐き出された白い息が、独り言に応えるように広がっていきました。ショールを置いてきてしまったので、肩から寒さが染み込んできます。ぶるっと震えた体を腕で包み込むと、幾分か和らいだ気がしました。
さて。あまり遅くなると師匠が迎えにきてしまいそうですね。ルシオラの手紙は、後でゆっくり読むことにしましょう。最近、知り合ったという、薬師男性の話が書いてあると良いのですけど。
「あれ、これなんだろう」
ちょっと奥にある、私一人が入れるスペースに、見慣れない色ガラスを見つけました。蓮の花を連想させるような形です。花弁の中心にあるガラス玉の中には、師匠の髪と同じレモンシフォン色の液体が入っています。そのさらに中心部には泡が集まっています。
魔道具でしょうか。そう言えば、ここにはいつも布がかけられていましたっけ。
「外の食べ物、浄化する道具と、同じみたい。青い液体ないけど――っつ!」
おおぅ。あまりに綺麗な細工に見とれてしまい、足元の金具に気がつきませんでした。引っかき傷が出来ています。ちろっと血もついちゃってる!
慌てて座り込んで勢いで、ネックレスもぶつかっちゃいましたよ! わーん、私の傷はともかく、師匠から貰った大事なネックレスに傷がつくのは嫌です。いくら私の中にある師匠の魔法調整の道具という名目とはいえ、師匠からの贈物には変わりありませんもん。
「よかった。傷ついてない……けど、色が変化、してる? なんで?!」
いつもは師匠の瞳と同じアイスブルーの輝きを放っていることが多い宝石が、私の髪に似た黒に近い紫になってしまっています。部屋の薄暗さのせいとは思えない色の違いです。
光を求めて蓮型のガラスに翳してみますが、やはり元の煌きではありません。
「え、なんで、どうしよう。悩んでる間に、ししょーに、相談!」
ぎゅっとネックレスを握り締めた瞬間。かたんっ、と金属音と鳴りました。びくんと、大げさなくらい跳ねた肩。
恐る恐る周囲を見渡しますが、特に変わった様子はありません。いやいや、こういうのって油断した途端、背後に影がいるとか!
出来うる限りの凶暴顔でぶんぶんと四方八方を見渡しますが、無駄な努力でした。
足元にひやっとした感触が触れましたよ! ぎゃっ!!
「って、金庫?」
驚きすぎて声が出なくて良かったです。金切り声をあげておいて、何事もなかったなんて事態、ホーラさんのご機嫌を損ねちゃいそうです。飲みを中断させたーって。本当になにかあれば、もちろん、心配はしてくださると思うのですけど、今日のホーラさんには嵐が吹いていますからね。
分厚い魔法書ほどの厚さの高さしかない金庫を覗き込むと、私の辞書ほどの本が入っていました。よかった。金庫の中に怖い顔の小人でも居ようものなら、心臓が破裂してましたよ。まぁ、それなら覗くなって話ですよね。
「けほっ。すごく、古い本。っていうか、無意識、手に取ってたけど、金庫勝手に見る、よくない!」
物凄く今更ですよね。手に取っておいて、これが日記とかだったら、すごく無神経です! 人様の過去や想いを勝手に覗き見るのはマナー違反です!
急いで戻さなきゃと思えば思うほど、焦ってしまうのが凡人の悲しいところ。つるんと、私の手から滑り落ちていった本が、床とぶつかり、開いてしまいました!
「うわっ! 本、傷んでたら、面目ないどころないよ! ――ん?」
なるべく中身を見ないよう、本の外側だけチェックしようと思った矢先。無意味に細めた視界が、みるみるうちに広がっていくのがわかりました。どうして、これがこんな所に仕舞われているのか。
だって、有り得ません。この本は、私の部屋の机に置かれているはずです。いえ、でも。震える手に握っている本は、埃を被っていないものの、紙は日に焼けて、所々傷んでいます。何度も捲られたのか、安い紙は擦れて文字も薄くなっています。書き込みは私が持っている――使っているものより断然に多く、見慣れないメモばかりです。
「たったまたま、同じ、ものかも。大量生産だし」
たまたまな訳ない。
口から出た言葉を即座に否定する自分がいます。たまたま同じ異世界の本を、たまたま同じ国の、たまたま同じ時期に発行された――英和辞書が、異世界にあるなんて。
辞書を持つ手が、痺れていきました。ぴりぴりと走る電気が痛い。
どうしていいのかわからなくて、きょろきょろと視線を泳がせてしまいます。呼吸が苦しくて、喉が渇いてしょうがないです。唾がうまく飲み込めなくて、盛大にむせ返りました。
「ど……して?」
ひとまず、辞書を戻しましょう。頭ではそう考えているはずのに、固まった指は言うことをきいてくれません。紫に色を変えつつある指に噛み付き、なんとか感覚を取り戻します。
一気に力が抜けてしまったせいか。再び、辞書が床にぶつかってしまいました。しかも角から。何をやっているんだ、自分。横っ面を殴りたい気持ちを抑えて、赤ちゃんを抱くような手つきで、本を抱き上げます。
幻じゃない。確かに感じる重量が、心に重くのしかかってもきます。
「あれ。背表紙から、紙が」
駄目、だめ。見ちゃ駄目。本能は最大音量で警鐘を鳴らしてくるのに。手も、がたがたと震えているのに。丁寧に折られた紙を掴んでしまいます。安っぽい本体とは違って、至極上質な紙には心当たりがありました。
師匠が魔法図を書くのに使っている物です。上級の魔法使いは、使用する紙自体、特殊なものを用いることが多い。そう教えてくれたのは、他のだれでもなく師匠です。
がたがたと揺れる手で破いてしまわないよう、細心の注意を払って紙を開きます。師匠の字で、折られていたのと同じ丁寧なペンの流れで綴られた文字。
「そ……んな」
あぁ、やっぱり。見なければ、良かった。後悔しても遅いのに。ぽたりと、一粒だけ落ちた雫が紙に染みていきました。
乱暴に金庫へ辞書を押し込めて。無我夢中で部屋を飛び出していました。自分の部屋に入った途端、全身から力が抜けていきました。座り込んでも、出ると思っていた嗚咽は流れてきません。ただ、反芻される文字。頭の中から消してしまいたい『名前』。存在ごとなかったことにしてしまいたいけど、叶うはずもありません。
だって。触れてはいけなかった扉を開けてしまったところに、大切に仕舞われていたのは――。
『アニム・ス・リガートゥル 百年後 メメント・モリ 約束』
あれだけなら、予言かとも無理矢理自分に言い聞かせて笑えたのに。運命だねなんて、師匠をからかって笑えたのに。瞼の奥にこびりついたのは、残酷なまでに明瞭に書かれた、ひとつの単語とひとつの文章。
『再会』
『あのアニム・ス・リガートゥルではない、異世界の少女――』
最後にあったのは、私の名前。お母さんとお父さんから貰った、大切なもうひとつの私の名前。綴られていたのは、間違いなく私の世界の文字。
どうして、どうして、どうして。なにもかもがわからない。師匠が待っていたのは、私なの? 私だけど、私じゃないの? 私が考えていたよりも、『アニムさん』という存在は重かったのでしょうか。複雑だったのでしょうか。
「辞書っ――!」
そうだ。師匠の手の込んだ悪戯かもしれない!
ばかみたいな淡い期待を胸に、もつれる足を叱咤して机に走ります。
「私、ばかみたい。ほんと、あほアニム。ううん、私は、アニムじゃない? 違う? 元々、アニムだったの?」
頭が割れそうに痛い。泣いてないはずなのに、号泣したあとみたいに目も頭も、全身が痛い。心が、痛いよ。
静かにあった辞書に、視界が歪んでいきます。あぁ、見ていたくない。こんなもの。
気がつけば、棚の奥にしまっていたリュックに辞書を投げ入れていました。力の限り投げたリュックが、ベッドを跳ねて見えなくなるのを息荒く見つめるしか出来ません。
私、何をしているのでしょう。物に当たったって、状況が好転するわけもないのに。
ついさっきまでは心地よかった雨音が、今は頭痛を誘う悪音にしか聞こえません。
「おい、アニム。すげー音で廊下走ってたみたいだが、ねずみでもいたか?」
「し……しょー。ちょっちょと、待って!」
鳴ったノックにさえ反応しない体。ですが、ドアノブがまわる音がして、はっと我に返ります。鍵をしてませんでした! こんなひどい顔、師匠に見られたくない!
ドアノブに飛びつこうと手を伸ばした直後。無常にも、師匠の胸に飛び込む形になってしまいました。
「本気でどうした。死人みてぇな顔色じゃねぇか」
「ししょー」
「ん? って、冷えまくってるじゃねぇかよ」
両頬を包んでくれる師匠の手は、あたたかいはずなのに。なんの温度も感じられないのは、何故でしょうか。眉が跳ねて怒ったみたいに心配してくれてる師匠に、頭痛がひどくなります。
師匠の瞳に映っているのは、私なのに。もはや、『アニムさん』がどうのこうのではなく、私の存在自体が、一体なんなのかがわかりません。
「ししょー、わたし……わたしは、なに?」
「アニムはアニムだろ。オレの初弟子で、その、大事なやつで、つーか、泣いてるのか?」
何かを隠しているはずなのに。師匠の声には、微塵も動揺や後ろめたさがありません。ただ、つっかえたのは、照れているだけで。普段は口にしてくれない言葉をくれるほど、私はひどい顔しているのかな。凍った心はとけず、血の気が引いた気持ち悪さだけが残ります。
大事なやつ。
けれど、その一言を繰り返すと、どっと涙が溢れてきました。いえ、涙が零れている感触はありません。瞳の中で溢れるだけで、流れてはいきません。苦しい。吐き出されない感情をうつしているようで、暗い思考に溺れそうで、たまらなく辛いです。
「ししょー、ぎゅって、して。私のこと、潰しちゃうくらい、ぎゅってして」
すでにしがみついているので、抱き潰すもなにもあったものじゃありません。けれど、師匠は文句も口にせず、きつく腕をまわしてくれました。肩口に顔を押し付けると、髪を何度もなんども撫でてくれます。髪だけじゃなくて、肩も背中も、心も全部。
でも、足りない。これだけじゃ、足りないの。
「ししょー、もっと、私をみて」
「アニム。お前、おかしいぞ? いや。別に求められるのは、オレだって、望んだり叶ったりだが……甘えてるってより追い詰められてる顔だぜ? ひとまず、座ろう」
「怖いよ。私、怖いの。ししょーが、『私』を見てくれてるのか、『私』はなんなのか、怖いの。『私』は――だれ?」
自分から尋ねておいて。師匠の返答を待たずに、強引に口づけていました。
師匠は最初こそ驚いて手を浮かせたものの、すぐさま応えてくれました。暖炉の火もなく、窓を打ち付ける雨音だけが入ってくる部屋で、水音が響き渡ります。バカみたいですが、二人で作り出す音に、若干ですが落ち着きが戻ってきました。
「はふっ」
「アニム――」
離れた唇を惜しむ暇もなく、師匠に顔をあげられます。絡み合う視線が、体の芯に響いてくる。また、呼吸が濃くなり、吐息が絡み合い続けます。
二人して体と唇、その感触をむさぼっている最中、襲ってきた揺れ。
「ししょー、地震?」
「まさか。水晶の森で地震なんて有り得ねぇ」
水晶の森で地震なんて、初めてです! 立って居られません。座りこんでも、師匠が抱きしめ続けてくれました。
数分続いた揺れがおさまる頃には、部屋は大惨事でした。家具はひっくり返り、本は散らばり、ガラス窓は割れていないものの、どうやらひびがはいってしまいっているようです。
「じゃあ、まさか、傀儡(かいらい)みたく、侵入者?」
「だろうな。ちっ。予想よりも早いお出ましじゃねぇか。アニム、立てるか?」
「うっうん」
不思議と膝は震えていません。さっきまではあんなに心を乱していたのに。
それが……師匠が傍にいて手を握ってくれているからなのか。これから起きるであろう事柄への恐怖で思考が停止してしまったからなのか。私には、わかりませんでした。
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