引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

  

17.引き篭り師弟と、師弟交換8


「ほんと、昔のウィータとは結びつかない表情ばっかりだわよ。あの無表情仮面がねぇ」

 ラスターさんは、しみじみといった様子で呟きました。
 私にしてみたら、無表情仮面の方が、師匠と繋がりません。いつも、眠たそうに瞼を落としているのも一因でしょうけど。
 眉間に皺を作っていたラスターさんですが。紅茶を一口含むと、口元を緩ませました。

「この家に揃っている紅茶やお茶。諸々の嗜好品(しこうひん)だって、アニムちゃんが来るまではほとんどなかったのよ? エルバは魔薬にも使用するから別だけど、たぶん、大方の品はアニムちゃんのために用意して、一緒に飲んだり食べたりしているうちに、自分も好むようになったんでしょうね」
「ししょーは、紅茶、好きですよ? センさんにも、持ってきてもらうよう、毎回頼んでます。寝る前は、だいたい、隣同士、座って飲むです」

 調理場の棚に並んだガラス瓶。レトロな質感のシールが貼られた瓶には、紅茶葉だけではなく東の国の茶葉も入っています。私の身長と同じくらいの棚にぎっしりと入った茶葉を、私のために用意してくれたとは、ちょっと考えにくいですよねぇ。
 首を傾げて考え込んでいると、ラスターさんが小さく噴出しました。

「アニムちゃんが自分のために淹れてくれた紅茶、が好きなのよ。かなりの確立で」
「どうでしょう。でも……そーだと、嬉しいな。ししょー、美味しい思ってもらえるよう、願って淹れてるですから」

 冷めてもなお、爽やかな香りをくれる紅茶。紅茶に詳しくない私にもわかるくらい、上質な茶葉ばかりあります。緊張して眉間に皺を寄せて、作法本片手に持っていた私に、師匠は「作法なんざ必要な時にだけ使えばいいんだ。オレに淹れてくれるなら、アニムが楽しんでくれないと、旨くないぜ?」と言ってくれたんだっけ。当時の私は可愛げなく「いざ、必要、なれてないは、無理。私、庶民!」って意固地になってたっけ。ろくに文字も読めなかったのに。
 そしたら、師匠ってば。私の手から本を取り上げて、読んでくれたんですよね。

「なにやら、紅茶にまつわる思い出もありそうね」
「私、またうっとりしてたですか。すみませんです。でも……振り返ると、身近なもの、ひとつひとつに、思い出詰まってるなって」

 たった一年半ほど。されど、一年半くらい。あっという間に感じられた時間の経過の中に、ぎっしりと詰まった、師匠と過ごした日々。というか、引き篭ってるのですから、当たり前か!
 焦ったら、急に喉が渇いてきましたね。紅茶を飲みたいとは思うのですけど、フィーネたちを冷たい作業台に置くのは、はばかられますね。あっ、ももに置けばいいか。幸い、高めの丸椅子には、足掛けがついています。滑り落ちていく心配もありません。

「アニムちゃんも、飲む? ポットの中の紅茶はまだあたたかいわよ?」

 もぞもぞと動いたのを敏感に察してくださったラスターさん。私が返事をする前に、ポットを傾けて、ぽこぽこと音をたててくださいました。
 寒さの中、流れていく紅茶は湯気をあげています。
 調理場の端にあるガラス窓を打つ雨が激しくなってきたので、ぐんと気温が下がっていたようです。師匠への想いを語って熱くなっていたので、気がつきませんでしたよ。

「ありがとうございます。クッキーの焼ける匂い、紅茶の香りと混じって、うっとりです」
「ねー。あたしたち、まるで新婚さんみたいね! あまーい、じ・か・ん」
「うなっ」
 
 ラスターさんがおどけた瞬間、スカートを握っていたフィーニスが、うめき声をあげました。嫌な夢を見ているのか、ぷるぷる震えちゃってます。大丈夫でしょうか。
 おなかを柔らかく揉むと、すぐに大の字になりました。くひくひ笑ってます。可愛いなぁ。そんなフィーニスに擦り寄ったフィーネにも、めろめろです。

「あたしの記憶にある限り、ウィータが体温あげる機会なんて、古代魔法に遭遇したり、よっぽど大きな魔法生成に成功したりとか、数えるくらいよ」
「すごく、意外ですよ。ししょー、色素薄いし。あっ、でも、ちょっと前までは、頻度は高くなかった、かもです」

 今でこそ、私から頬にキスしたり素直な言葉をぽろっと零しちゃたりする時には、真っ赤になる師匠です。けれど前は、意地悪顔されてる回数の方が多かったですもんね。大体、眠そうな目でしれっとしてました。中二病っぽい台詞は相変わらずですけどね。
 つい、懐かしい思い出に浸ってしまっていたようです。あがっていた視線を戻すと、苦笑を浮かべたラスターさんがいらっしゃいました。

「あと、ちゃんと食事取るようになったのも驚きだったわー」
「食事も、出会った頃は不規則で、量もちょっとでした。お酒ばっかり、飲んでた、ですよ。でも、私、料理練習で失敗したもの、一人でもそもそ食べてたら、付き合ってくれたです。美味しくなかったのに。それから、一緒に食べるよう、なったです」
「すっかり食欲旺盛になっちゃったわよね。変わった、の一言よね。アニムちゃんも、女らしくなったんじゃない? 言動というか、雰囲気というか。体のラインも柔らかくなったっわよねぇ。って、変な意味じゃなくてよ?!」

 ラスターさんは、はっとしたように勢いよく頭を振っています。ラスターさんの口から出てくるなら、さしていやらしいとも思わないのですけど。あまりにも必死なご様子に、私もぶんぶんと縦に頭を動かしていました。
 柔らかくっていうだけは、ちょっと聞き捨てならないです。まさか、太ったって意味じゃないですよね。とほ。

「私、ちょっとは、女らしく、なってるですかね?」
「もちろんっ! 可愛さが増してるわよ! ふとした表情も、思わず口づけしたくなっちゃうほど!……相変わらずな、部分もあるけれど」

 最後にぽそりと付け加えられたものは無視しておきましょう。うん。いいとこだけ頂戴いたします。
 改めて振り返ってみると、思いつく変化はいくつもあるんですね。私自身も、こんな風になるなんて、考えてもみませんでした。
 そもそも、告白もないうちからキスしたり、抱きついたりするタイプじゃなかったですし。けど、師匠とだと、そうしたいなぁって浮かんで。実際行動に移した後だって、後悔は微塵もないから不思議です。

「全部ウィータのせいだって思うと、ちょっぴり妬けちゃう。それにも増して、アニムちゃんの影響で変わりまくってるウィータの話が面白いから、許しちゃう!」
「ラスししょーの許可、いただきましたー!」
「で、ウィータの好きなところの続き聞きたいわ?」

 口の端をあげたラスターさんが、じっと見つめてきます。今更ながら、私の惚気(のろけ)を聞き続けて、苦痛ではないのでしょうかね。
 おずっとラスターさんを見つめ返しても、変化は起きません。
 ブレイクタイムを入れてしまったら、途端気恥ずかしくなってしまいましたね。気を紛らわすために、フィーネたちの耳をいじってしまいます。

「ししょーね。自分からは平気なくせに、こっちから寄ると、真っ赤なるの。私を、全部包み込んでくれるけど、子どもっぽいとこもあって。魔法すごいのに、抜けてて。かっこいいだけなくて……うまくは、言えないのがもどかしいです。でも、ししょーって、存在が、ぜーんぶ大好きだなって、噛み締めるですよ。抱きしめてくれる手つき、ひとつとっても。髪撫でてくれる、指も。たぶん、ししょーばかって怒れる部分も、思い返すと、好きだな、に変わるです。あとね、瞼に口づけも、好きです。魔法かけられたみたく、ふわって、幸せなるですよ」

 私、師匠にべた惚れじゃないですか。今更ですかね。そうだ、嫌いな点を探してみましょうか! はっきり言ってくれないところは……師匠の性格ですから仕方がないです。手を出してくれないのは……って、私側の問題ですよね!
 何を考えても。にへにへと締まりなく笑ってしまう私は、さぞかし気味の悪いと思います。頬を押さえると、案の定、だらしなく緩んでいました。
 ラスターさん、きょとんとしていらっしゃいます。奇妙なものをお見せして心苦しいですが、たるみは戻りません。

「アニムちゃんは、ウィータの、なんていうか、抜けたところが好きなの?」
「はい! っていうと、誤解ありそうです。魔法使ってるししょー、もちろん、かっこいいです。悪人面してる、けど。きらきら、魔法反射して、髪も瞳も、綺麗」
「あいつ、魔法使ってる間は楽しすぎて愉悦顔になるのよね。それが悪人ぽいったらありゃしない。でも、女ってさ不思議と、そーいう面に魅かれるのよねぇ。本能的にも」

 本能的という部分だけ、やたらと艶めいた声で紡がれました! ラスターさん! それは故意的ですか無意識ですか、どっちですか!
 どちらにしても、特に何が変わるわけでもありませんね。うん、落ち着こう。

「アニムちゃんも、ウィータをかっこいいとは思ってたのね」
「普段の私、ししょー、どうとらえてる、思われてるですか……」
「いえね。ちゃんと男として想ってるのは、じゅーぶん過ぎるくらい伝わってくるのだけど。夫婦漫才みたいなんだもの。あとは、老人扱いとか」

 あれ、聞き覚えがある単語です。気のせいか。気のせいですよね。恋人通り越して、夫婦って。
 お年寄り扱いは事実なので、反論のしようがありません。

「で、結局一番の決め手は、かっこよかった姿?」
「んー、どうでしょう。好きだなって染みてくるのは、一緒に過ごしてる、日々のししょー、かな。うん。色んな表情の、ししょー」

 大きく頷くと、頭の上のお団子が揺れました。いい加減、興奮して振りすぎましたかね。こくんと紅茶を流し込む、息を吐き出すと落ち着きました。
 再び腕に包み込もうと、フィーネとフィーニスを抱きかかえた直後。二人の鼻が、ひくっと弾みました。
 真似ると、クッキーが焼けた、ほんのり焦げた香りが吸い込まれてきました。瞼を閉じると、より強くなります。
 雨が混じった湿った空気。元の世界と違うけれど、どこかで共通点のある日常。
 瞼を開けた先にいたのは、腕を組んで考えているラスターさんでした。

「ラスししょー?」
「やっ、その。聞いてるこっちが照れるというか、ね。ウィータが羨ましいっていうか。むしろ羨ましいを通り越して、アニムちゃんと出会えたウィータを祝福してあげたいっていうか。恋に恋してるって感じで、微笑ましいというか。恋すると、人って綺麗になるわよねっていうか」

 ラスターさんはすくりと立ち上がり、屈伸運動を始めました。私の惚気話で体が固まっちゃいましたかね。なんと、申し訳ない。
 実際口に出して「惚気てすみません」も違う気がしたので、照れ笑いで誤魔化しておきましょう。
 ただ……つきんと胸に刺さった一言。恋に恋してる。それはつまり、私って師匠を好きな自分に酔っているような印象を受けたという意味でしょうか。
 いえ、人生経験豊富なご長寿ラスターさんからしたら、初々しくて微笑ましいという意味かもしれませんよね。

「でも、私、浮かれてるだけ、思えるから。だから、ししょー、はっきり言わないのかな。残れ、言ってくれないの、かな」

 ほろ苦い想いと香ってくる甘い香りに、ぎゅっと胸が縮みます。
 と、腕の中のフィーネとフィーニスが、ばちっと瞳を開けました! 可愛いのは可愛い! しかしながら、結構な迫力!! 大きなおめめなだけに、閉じてー開いてーのギャップは凄まじいです!!
 不思議な色を浮かべるムーンストーンに似た瞳をきらきら輝かせて。フィーネとフィーニスが腕から飛び上がりました。

「うにゃ!! クッキー、焼けたのぞ!」
「今でしゅ! 今だすのでしゅよ!! クッキーしゃんに、くりーむちーず、挟むのでしゅ!」
「ちょっ、子猫ちゃんたちが窯の扉に触れたら、毛が焼けるわよー!! あたしのアニムちゃんへの愛情のような炎でー!」

 飛び上がって隣の窯室に突っ込んでいったフィーネとフィーニス。二人を追いかけようとラスターさんも、椅子を鳴らしました。鳴らしたんですけど……。

「ルシオラ……! あんた、師匠を足蹴にするのはやめなさいと、あれほど。ぐほっ」
「ばーか。わたしの師匠はウィータ様なの! ってか、このあほ義兄!! ちょっとはと思ったら、すぐアニムアニムって!!」

 がこんと。ラスターさんの頭に万年筆が直撃した直後。風を切る速さでルシオラさんから蹴りが繰り出されました。お見事! 調理場が狭くなくって、良かったですね! ラスターさんも、今度は倒れてませんし! 膝を突いて悶絶しているだけです。
 それにしても、ルシオラさん。豪快な照れ隠しとやきもちです。

「ルシオラ、やきもち妬いてるのね。可愛いっ! って、目潰しは駄目よ、目は!」
「まじで引きずり出す」
「待てまて! さすがにグロいのはやめなさい! それより、あんたウィータと地下にこもってたはずでしょ! 魔法生成終わるにしては、早すぎるわよ?!」

 おぉ。納得です。のんき顔で手を打ち鳴らしてしまいました。言われてみれば、まだお昼をちょっと過ぎたところです。しまった、です。話に夢中で、パニース焼いてません。
 って、えぇ?! 

「あの、ルシオラさん? 一応、お聞きするです。どこ辺りから、聞いて、いらっしゃいました?」
「んー。ラス兄が、わたしの寝ぼけどうのこうの、ほざいてたところからかな?」

 人の気配はルシオラさんでしたか! 私、すごい! 感覚が鋭くなってる!
 いやはや。現実逃避してる場合じゃないよ、自分。
 
「おまけに、念のため、もうひとつ。ししょーは、地下ですよね? お願いです、地下だって、断言してください」
「断言する必要性が、いまいち理解出来ないって。もちろん、ウィータ様も一緒。子猫たちの魔力が乱れて結界揺らしてたから、様子を伺いにきたんだよね。魔法映像でも良かったんだけど、昨日ひと悶着あったばっかだったらしいし、加えてちょうど摘みに行きたい花ができたから、あがってきたわけ」

 ルシオラさん、丁寧なご説明ありがとうございますです。でも、さらっと。肝心な部分を、さらっと告げました? 
 でもでも、師匠は姿を現さないし、玄関先にいるのかな。魔法関連ですからね。師匠もさっと行動されていることでしょう。お年寄りなんて笑えないスピードに違いありませんよね。うん、間違いないです。よかった。ふぅ!

「あにみゅー! あけてなのぞー! 花クッキー、枯れちゃうのじゃー!」
「美味しそうな匂いじゃん」
「ルシオラ、あんた開けてあげなさいよ」

 よっぽどお腹がすいていたのか。ルシオラさんは上機嫌にスキップで消えていきました。って、違いますよね。ラスターさんの言葉が、すっごく嬉しかったんですよね。ラスターさんも直接言えない、照れ屋さんな一面もあるんですね。新発見。
 何はともあれ、私の惚気だけで終わらない有意義な時間だったようです。一安心。
 あと、もう一点、安堵の溜め息をつきたいので、万が一とは思いますが、確認しておきましょう。

「あのー、ししょー、万が一にも、壁のそちら側に、いらっしゃいません、よね。やっぱりですか、いませんね! よしっ!」
「アニムちゃん、かわいそうな子みたいだわ」

 ラスターさんの同情たっぷりな声が、やけに遠くに聞こえます。ホーラさんみたいなこと、おっしゃらないでください。
 ぎぎぎっと。さびたロボットさながらに向きを変えると。さっと血の気が引きました。
 入り口に師匠の腕だけが見えるじゃありませんか。手招きされてますが、動けません。長い幅のある袖が、ゆらゆら揺れてます。
 蜃気楼(しんきろう)みたいですねー幻かぁーそっかー水晶の森の魔力なんだろうなぁ。師匠と離れてるのが寂しいなんて乙女チックな思考を察してくださっただろうなぁ。でも、魔力さん、どうぞお気遣いなく。さっと、消えてくださいな。

「さーて! お昼も用意、するので――」
「あほアニムが。さっさと、オレのとこに、きやがれ。腹くくって」

 声なき叫びが、結界中に響き渡ったことでしょう。びっくりした時のフィーネたちみたく、全身が逆立っていますよ。
 奥の窯部屋から聞こえるはしゃぎ声に、混ぜて欲しい。切実な願いをよそに、残酷に背中をおされました。

「らっラスターさん?!」
「ごめんなさいね、アニムちゃん。あとは、任せてっ! それに愛のやり取りを邪魔して、恋天使のハンマーで潰されたくないのよ、ルシオラが独り立ちするまでは」

 そっと目元をふくラスターさん。
 って、なんじゃそらー!! 人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて的なことわざですか?! 恋天使って、いるんですか、そんなエンジェル様?! むしろ、今の私を助けて欲しいですよ! 邪魔なんてとんでもない!
 残念ながら、突っ込みは形にならず……勢いよく、腕を引っ張られてしまいました。

「あっ! あの、ししょー、あれは、そのっ! いつも、あんなの考えてるなくて、ですね!」

 当の本人にドン引きされてたら、本気で泣けます。っていうか、もう既に涙目です。
 けれど。くるりと回転した先、壁にもたれている師匠を見たら……いい訳全部、吹き飛んでいきました。
 きょとんと瞬いた一瞬後、自分が満面の笑みになっていくのがわかりました。

「うっせぇ。ラスターに向かって、べらべらしゃべるなんて勿体ねぇことしてんじゃない」
「今の私、口だけじゃなくって、心音も煩いよ?」

 もっと、師匠を眺めていたかったのに。ぎゅっと、抱き込まれてしまいました。
 あの師匠の表情や空気をどう表現したいいのかもどかしい。反面、私だけの瞳にだけ焼き付けておきたい気もします。体が熱いくて。嬉しい温度で。胸に刻んでおきます。
 苦しいはずなのに零れていく笑い声に、師匠が眉をひそめている。簡単に思い浮かびます。強まった腕の力と耳元に触れてきた唇。

「アニム、いいか。さっきのオレは、忘れろ」
「私、記憶力は、悪くないほうですよ。たぶん、一生、覚えてる」

 壁の向こう側で、フィーニスとフィーネがはしゃいでいるのがわかりました。ラスターさんとルシオラさんが言い合っているのも、聞こえてきます。
 なのに、どうしてか。私と師匠、二人だけの世界みたいに感じています。これが恋に恋してるってことなのでしょうか。

「ぬかせ。口を塞いで、心臓は抱き潰すぞ」
「大歓迎だよ?」

 ぽっと浮かんできた闇を追い払うよう、明るめに出た声。幸せと不安が同居する毎日にも慣れてきてしまっているのは、良いのか悪いのか。
 瞼を閉じると、師匠の掌が何度も頭を撫でてくれました。あぁ。この体温と感触に思考を奪われるんです。

「へらず口め」
「じゃあ、私の惚気も、忘れてください、ですよ」
「抜けたところが良いなんて斜め上の告白、忘れられるかよ」

 理不尽じゃありませんか、お師匠様。私はいつだって素直なだけですよ。斜め上って――確かに、男の人って可愛いとか言われるの嫌がるって、千紗から聞いた覚えがあります。もしかして、傷つけちゃいましたかね。
 ここは私が一歩引いておきます。

「いやだったら、ごめんね」
「――ったく。アニムにはかなわねぇよ」
「ししょー?」

 溜め息交じりの呟きが、やや上から聞こえてきました。緩んだ力を寂しく思いながら、顔をあげると。師匠は天井を仰いでいました。腕は腰の後ろにまわったままなので、結構な密着具合ですけど。
 もう二・三度呼びかけてようやく、苦笑を浮かべた師匠が私を瞳に映してくれました。と同時。お団子をとめていた髪飾りを、とられてしまいました。

「ぶわっ! ししょー! まだお菓子作り、終わってないのに!」
「ほーれ。ぐしゃぐしゃー」

 ばさっと落ちてきた髪は、それなりの長さがあります。加えて、お団子にしていたのでふわっふわになってます。しかもですね。四方八方に飛んだ髪を、師匠の指が掻き乱してくるんです。余計にもじゃもじゃですよ。
 師匠の手首を掴んで抵抗を試みますが……師匠があまりにも無邪気な笑顔を浮かべていてですね。可愛すぎる二百六十歳に、喉がぎゅっとなりました。

「っおし!」
「もー、おし、ないよ。子どもじゃ、ないんだから」
「女の髪をほどくのが、子どもの仕業なのか? 百歩譲って子どもでも、オレのそういうところも、好きなんだろ?」

 ぐっ。今度はしたり顔ですか。
 だれです。昔の師匠が無表情仮面なんておっしゃったのは。目まぐるしいほど、豊かに変化してるじゃないですか。
 ぶすっとむくれつつ、睨みあげます。けれど、事実なので、素直にひとつ、頷きました。

「……ありがと、な」

 じんわりと。心に染み渡った言葉。広がっていく幸せは、師匠の姿を蕩けさせます。お礼を口にしてくれた。つまりは、嫌がられてはないんですよね?
 気付けば、師匠の首に腕をまわしていました。

「どーいたしまして! たまになら、お披露目する、ですよ!」
「そーしてくれ。連日は、心臓に悪過ぎる」
「お年寄り、心臓負担かかるは、危険! 弟子は、黙るです、離れるですよ!」

 あっ。師匠の頬が引きつりました。半目をさらに薄くしちゃってます。
 体が熱くて爆発しそうなので、そろそろ腕の中から抜け出したかったゆえの、ボケだったのですけど。
 逆に、師匠と壁に挟まれる結果となってしまいましたとさ。




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