引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

   

17.引き篭り師弟と、師弟交換10


「しっかしさ。異世界人っていっても、わたしたちとまるっきり外見変わんないよね。そうやって、恋話を嬉しそうにするのも、笑ったりするのも」

 しみじみといった様子で呟いたルシオラ。その言葉が、心に染みてきました。異世界人の私が思った同じことを、この世界の人も抱いている。
 当たり前といえば、当たり前なのですけれど。ルシオラとおしゃべりをしていると、当然のこととして受け入れていたのだと、改めて気付かされます。 

「私の世界、魔法ないけど、この世界と、生活的な面は、とても似てるの」
「魔法のない世界から飛んでくるってのも、珍しいよね。ウィータ様が召喚術に失敗したってのも、未だに信じられないけどさ。まっ、片道切符なら、無理でもないのかな」

 片道切符。さらりと出た言葉に、心臓がぎゅっと縮みました。
 元の世界に戻らなくていいと、第三者に許しを得たような錯覚に陥ったからなのか。それとも、郷愁や両親たちに対する罪悪感からだったのでしょうか。
 とらえどころのない感情に、戸惑ってしまいます。

「アニムは、自分の世界に戻るつもりなの?」

 ひゅっと。喉に吹いた風に、むせ返ってしまいます。起き上がって咳き込んでいると、ルシオラが背を撫でてくれました。幸い、フィーネとフィーニスは身動ぎしただけです。
 しばらくして。手渡された水を煽ると、心も落ち着きを取り戻してきました。
 予想していなかった、一歩踏み入った質問に全身が冷えていきました。

「どうして?」
「どうしてって……あれだけウィータ様への想いを語っておきながら、わたしの一言に動揺してるんじゃ気になるでしょ」

 耳を打つのは激しい雨音。でも、どうしてか不快には思いません。これが風だけなら、おそらく、揺らいだままだったでしょう。
 『雨』だから、『私』を支えてくれる。多くの人が嫌がる雨を、師匠は好きだと言ってくれたから。雨が作りだす空気も、香りも。音も全部。

「あのね。会ったばかりのルシオラに、こんな重い気持ち、吐露(とろ)していいのか、わからないけど」
「別にいいんじゃない? 聞きたくなかったら、元々尋ねないし。変なとこに気がつかないよね、あんたって」

 ぐはっ。本日何本目かの槍が、体を貫きましたよ。
 ですが、ルシオラの声調はさっぱりとしていて、心地よいのです。なので、ついつい話したくなってしまうんです。
 たぶん、ただ本当に今思っていることを聞いて欲しかったのでしょう。訪問者の方に言い訳しながらではなくて、同年代の女の人に、純粋な迷いを聞いて欲しい。そう思ったのかも。

「私ね、ししょーが大好き。恋で、終わらせたくなくって、ずっと、一緒いたいって、願ってる。フィーネとフィーニスも、可愛くて、仕方がないの。でもね……このまま、この森に――この世界に、残りたいって、思う日あれば、じゃあ、元の世界に残してきた、両親や弟妹は、どうするんだって、自分を責める自分も、いて。ししょーが、好きな気持ちだけで、選択していいことなのかなって。私、外の世界も、この世界の事情も、ほとんど、知らないのにって。いつかししょーに、迷惑かける結果になったら、ししょーは、後悔しないかって」

 一気に早口で流して。肺の中全部の空気を吐き出しました。長いながい溜め息は、雨音にはまざってくれず、異質な音のように耳に残ります。
 ですが、不思議と心は軽くなりました。すっと、胸のつっかえがとれたような。
 ぴくりと垂れ耳を動かしたフィーネとフィーニスが、膝に乗ってきました。また泣かせてしまったかと不安が過ぎりましたが、どうやら寝ぼけているだけのようです。

「たぶん、ラス兄から聞いていると思うけどさ。わたし、戦争孤児で五歳の頃から孤児院暮らしだったんだよねー。で、ある時、旅の魔道師からウィータ様の話しを耳にしてね、それなりに暮らしてた孤児院を飛び出したんだ」

 押し黙っていたルシオラから、予想外の言葉が出てきて。瞬きの間、ぽかんと呆けてしまいました。枕を腕に抱いたルシオラは、切れ長の瞳をしっかりと私に向けてきています。
 ルシオラの意図は読めません。けれど、まっすぐにかけられた言葉に、顎が小さくひかれました。

「ほんとに、ししょーに、会いたかったんだね。水晶の森、位置、近かったの?」
「いんや。ぶっちゃけ、この水晶の森の位置自体、あやふやな情報だったし、魔道師からも気の迷いを起こすなって釘をさされた。けど……寂れた村の孤児院で一生を終えたくないって思いが強くってね。まぁ、今考えると、ただ単に魔法のセンスがいいとか言われて調子に乗っちゃってただけなんだろうね」

 実際、魔法のセンスはあったのでしょう。師匠やラスターさんの話からだけですが、魔力のない私にも、ルシオラがとっても優秀なのはわかります。
 少し離れた場所にある暖炉から漂ってくる火の粉と木の香り。それを吸い込んだのか、深呼吸をしたのか。ルシオラが大きく息を吸い込みました。

「ラス兄の元で勉強するようになってから知ったんだけど。孤児院があった村は地図にものってないような場所だったらしくて。幼かったのや無我夢中だったのもあって、どこをどう歩いてきたなんて、覚えてなくってさ。まぁ、後々お節介にもラス兄が見つけてくれちゃったわけだけども」

 照れくさそうに笑ったルシオラは、とても幸せそうです。つられて、私の頬も緩んでいくのがわかりました。
 故郷が見つかったのだけはなく、自分のためにラスターさんが故郷を見つけようと頑張ってくれていたことが嬉しかったのだと、容易に想像がつきます。
 フィーネの耳をいじっていた手が、ぴたりと止まります。

「私、そっか。私――」

 あぁ、なんてことでしょう。
 私、元の世界に戻る術を師匠が探してくれているのを。帰って欲しいからだと悲観していましたが……自分の気持ちしか、恋心からしか、見ていなかったんだ。
 恋に恋している。ラスターさんの台詞の通りだったじゃないですか。

「私、ししょーが、私のため、頑張ってくれるのを、感謝してなかった。元の世界に戻る術、探しているのを、帰って欲しいって、私はいらないって思ってるって……。自分がどう感じてるかしか、見えてなかったんだ」
「へっ? そうなの? まぁ、そんなもんでしょ。わたしだって、十六・七だったかな、孤児院発見したって耳にした当初は、孤児院につき返すつもりかー! って暴れたもんな」
 
 あっけらかんと、言われてしまいました。
 ルシオラは、目を見開いた私に気付いた様子はなく、枕を殴っています。きっと、同じ勢いでラスターさんを殴ったんでしょうね。とっても、痛そうです。じゃなくって――。
 そんなもんでしょ。
 その一言に、涙がこみ上げてきました。泣かないけど! 最近のアニムは泣き虫べそかきのレッテル貼られそうな位、涙腺が弱いですからね! 負けません!

「元々、ほんとの家族は生きてるのか死んだのかも、明確じゃない。もちろん、どこだったなんてのは、だれも知らない。内乱も戦争も耐えない地域だったみたいだし」
「この世界は、戦争、いっぱい?」
「国によるかな。今は、割と落ち着いてるし。ただ、故郷ってそんなに大切なものかな? 大事なのは、今の自分がいる……『居場所』じゃないかな。アニムは異世界人だから、わたしとは違うけどね。けど、この世界だって、家族はいたって、会えない遠い国に嫁いで行く女もいる。突然の別れで離れ離れになることだってある」

 ルシオラの手が、遠慮がちに私の手に重なってきました。ちょっと冷たくて、私より華奢な指には、いっぱい傷がありました。新しいものもあれば、古いものもあります。細い指に似合わないたこもいっぱいあります。
 顔をあげると、真剣な眼差しが私を射抜いていました。

「アニムがこの世界に残る選択肢に、引け目や罪悪感を抱く必要はある? 別に世界の壁があっても、覚悟っていう意味では、ほとんど変わらないんじゃん? それとも、アニムの両親は、娘の幸せを否定するような人なわけ? これから一生出会えないかもっていうくらい惚れてる男より、自分たちを選べって言っちゃうの?」

 違う。絶対に、違う。
 お父さんもお母さんも、私の幸せを願ってくれるはず。他の人が反対したとしても、苦言をていしたり、諭したりすることはあっても。最後は「後悔しなければ」と背中を押してくれてきた、大好きな両親。
 大きく頭を振ります。ついさっき、堪えろと言い聞かせたばかりの涙腺のせきは、いとも簡単に崩壊してしまいました。

「絶対、言わない、よ。きっと、お父さんは、拗ねちゃうかもだけど。雪夜は、呆れるだろうけど。華菜なんて、会ってみたかったなんて、大騒ぎしそうだけど。お母さんは――満面の笑みで、万歳しながら、背中押してくれるの」
「うん。まっすぐなあんたの告白聞いてたら、伝わってくるよ。ラス兄にわたしのこと言ってたのからだって、そう思う。一日どころか時間にしたら数時間だろうけど、子猫たちへの接し方ひとつとったって、だれかに愛されて、愛してきたってのくらい、判断がつく」

 私の言葉。最後の方は、嗚咽交じりでした。ルシオラには聞こえてないかもしれません。
 それでも、あわせた額が何度も揺れました。だれよりも壁を作っていたのは、私だったんだ。何かを理由にして、選ぶことから逃げてたのは私。言い訳を探して逃げ道を作っていたんだ。
 くしゃくしゃになった顔を両手で覆っても、涙は止め処なく零れ落ちていきます。その手を剥がれたかと思うと、シーツがこすり付けられました。ちょっと荒っぽいけど、優しい痛さです。

「へへっ。ルシオラ、ありがと。私、ちゃんと答えだせそう」
「そっ。私も聞けるの、楽しみにしてるよ。今度遊びにきた時には、教えてもらうようにね」
「ぐっ。近いうち、また遊びきて、言い難くなった、ですよ」

 うっと、喉を詰まらせると。ルシオラが大きな声をあげて笑い出しました。
 私もつられて、声をあげて笑ってしまいます。部屋中に響く高い声が、おかしいくらい、お腹を刺激してきます。
 フィーネとフィーニスは起きなかったものの、「くひゃひゃ」とお腹を抱えて笑っています。夢の中で、はしゃいでるのでしょうか。

「それにしても、ルシオラ。出会ったばっかの、私のこと、一緒になって、真剣に考えてくれて、ありがと」
「……お礼はさ、ラス兄たちに言ってあげてよ。あっ、全部うまくいってからね! わたしがフライングしたなんて耳に入ったら、どんな説教くらうか」

 ひとしきり笑いあったあと。再び、ぐしゃぐしゃになっているでろう顔を拭ってくれているルシオラに、お礼を言うと。ルシオラの肩が、軽くすくめられました。
 それに、複数形なのはどうしてでしょう。

「ラスターさん、たち?」
「うん。実はさ、さっきの、ほとんどはラス兄やセン様、それにホーラ様の受け売り。っていうか、代弁」

 よく顔を合わせている訪問者さんたちの名に、驚きを隠せません。言葉もなく、前のめりになってしまいましたよ。ぱくぱくと口を動かすだけで、喉から音はなりません。自分でも何を言いたいのかは不明です。
 当のルシオラは、落ち着けといわんばかりに、肩を押さえてきます。

「ほら。アニムの話は、ずっと前からウィータ様やラス兄から聞いてたってのは言ったじゃん。で、セン様もホーラ様も、うちによく来るんだよね。ついこの前も宴会しにきてたんだよね」
「みなさん、ほんとに、宴会お好き……」

 いえ、みなさんすごい魔法使いやら術師さんなのは重々承知しております。ただ、それよりも飲み好きなお姿が浮かんでくるといいますか。
 ルシオラも同じ考えだったようです。乾いた笑いが、湿った空気の中、流れていきました。

「で、さっきわたしがアニムに言ったようなことを話してたって訳。特に、昨日の昼過ぎに魔法映像で、皆とセン様の奥様交えてなにやら相談してたのを、ちらっと聞いちゃってさ。もちろん、そのままじゃなくって、わたし自身がアニムと接してて思ったことも混じってるから!」
「みなさん……心配して、くださってた、ですね。私、そんなに、わかりやすかった、のかな。世界云々も、簡単に、想像できる悩み、だったのかな。口にだしたは、覚えないんだ、けどな」
「そりゃ、世界に関しては真っ先に浮かぶ壁だろうしね。そっか、はっきり口には出してないのか……」

 ルシオラの声が、ふっと消えました。唇に拳をあてたまま、沈黙しています。もしかしなくても、口にするべきかどうか迷っているんでしょう。
 めちゃくちゃ気になります! お願い、眠れなくなるから途中で止めないで!
 ルシオラがこてんとベッドに倒れこみました。私も、ごそごそとベッドにもぐりこみます。暖をとるためか。ルシオラが私の腕からフィーニスをすくいあげました。

「断言は出来ないけどさ。みんな、予想できるってよりは、知ってるみたいな口振りだったんだよね。昨日のは。『時期を考えると』とか『間違いない』とか」

 時期。
 その単語にひっかかりを覚えます。師匠が頻繁に口にする単語です。それに、ラスターさんやホーラさんとお会いした頃の宴会で、寝る直前に聞いたような気も……。

「あー、ごめんごめん。アニムに心当たりがないなら、きっとたいしたことじゃないんだよ。きっと。それより、おもしろかったのがさ。どうやら、アニムってラス兄の昔の想い人に似てるらしいよ? ホーラ様が、『手を出さないよう、気をつけるのですよー』って悪戯っぽく笑ってた」
「ぶっ! なにそれ! 明日、ラスターさんと、どんな顔して会ったら! っていうか、ルシオラ、妬くところじゃないの?!」
「わたしは別にーむしろ、変な方向の趣味じゃなかったってのに、安堵したね。ってことで、おやすみー」

 ちょっ! ルシオラってば、爆弾投下して寝ないでくださいよ!
 宣言どおり。ルシオラはすでに寝息を立てています。相当眠かったのに、話に付き合ってくれたんですね。むき出しになっている肩にそっとシーツをかけると、わずかに口角があがりました。
 って、ちがーう!! まっまぁ、ラスターさんの想い人情報はさっと忘れておきましょう。うん。それが身のためだ。

「お水――きれてる。ちょっと、落ち着くため、台所、いってこよう」

 三人を起こさないように、そっとベッドを抜け出します。椅子にかけたショールを体に巻きつけると、だいぶあたたかくなりました。寒いのは嫌いじゃありません。ですが、風邪をひくと、師匠が心配しそうですからね。
 机の上に出しっぱなしになっていた元の世界の辞書が、どうしてか目にとまりました。

「今、しまうと、うるさいよね」

 独り言も充分雑音だとは思うのですが、癖になっているので仕方がないのです。申し訳ない。
 抜き足差し足で部屋を出ると、途端、体の芯に響いてきた寒さに全身が震えました。雨音からするに。まだ、止みそうにないですね。はふっと浮いた白い綿毛に、指を入れ込みます。ここが夢でないのだと、実感できる方法のひとつ。

「――から、明日――」
「メトゥスが――で――」

 おや。階段付近から、声がします。師匠とラスターさんのようです。
 ぺったんこの室内靴ですが、床を鳴らします。長い廊下を進んでいくと、案の定、階段の中段あたりで話し込んでいる師匠とラスターさんがいらっしゃいました。空気が澄んでいる分、多少距離があっても声は響くんです。
 階段から覗いている姿から察するに、二人とも夜着のようです。風邪ひかないといいですけど。

「ししょーもラスターさんも、まだ、寝ないです?」

 自分も夜着なのが少し気恥ずかしいですが、無視して通り過ぎるのもなんですからね。ぎゅっとショールを巻きつけて階段を下りると。ラスターさんはぱっと顔を輝かせて、師匠はむすりと口をへの字口に曲げました。
 大丈夫ですよ、師匠。ワンピース型の夜着ですが、ちゃんと、スカートの中身はもこもこしてます。寒さに強い夜着だと、街にいる式神さんずが送ってくださった新作です!

「あら、アニムちゃん。ルシオラのいびきが煩くて、寝られない?」
「それ、ルシオラに、告げ口しちゃいますです」

 ルシオラを呼び捨てにしたのに驚いたのか。ラスターさんが「あら」と繰り返しました。ですが、すぐに柔らかい笑みが浮かびました。お兄さんの微笑みです。私も嬉しくて、へらっと笑い返していました。ルシオラを連れてきてくれたラスターさんに、大感謝です。
 師匠の隣に立つと、すぐさま、二の腕をつかまれました。
 だから! 二の腕はやめてっ! せめて、髪にしてください! いえ、髪は髪で、変に心臓が暴れるんですけども。師匠の髪の触り方って、やらしいんですもん。

「まさか、クッキーが食い足りねぇとかで起きてきたんじゃねぇよな、お前。太っても胸にはつかねぇぞ」

 ぐわっ! ひどい! クッキーで胸が大きくなるなら、いくらでも食べますよ!
 数分前までは大好きだって思ってたのに。今私を支配するのは、おっぱい憎悪。じゃあ、師匠が揉んで下さいっていうかおっぱい体操手伝ってくれるんですかとはいいません。本当にやってくれそうだから。

「お年寄りは、あったかくして、早く寝るですよ。あっ、でも。ししょーが、寝込んだら、お年寄りの胃、優しいごはん、つくってあげるですよ」
「それが熱を出して苦しんでるとこを看病してやった優しいお師匠様に対する恩返しか!」
「好きな人に、胸小さい言われるは、悲しいの、ししょーくらい、人生経験あったら、わかるでしょ! どっちが、ひどい!」
 
 どちらにしても、ぐぬぬってなるのは変わりませんけどね。
 しょんぼりと胸を持ち上げてみても、たいした質量はありません。いえ、自分の名誉のために付け加えておくと、ちゃんと谷間が出来て、柔らかいって印象を受けるくらいはあるのですよ? 
 けど、師匠に満足してもらえるボリュームかと問われると、自信はありません。

「あほアニム!! オレ以外の人間がいるところで、誘うような行動は控えろ!」
「……誘っても、こたえてくれない、くせに。どうせ、幼児体型。だれも、気にしないよ」
「あのな、オレだって、師匠である前に、男なんだぞ。我慢にも限度ってもんが、あるんだ」

 この世界に残るって決めた女は強いのです。早く襲ってくれとは口が裂けても言えませんけど、反抗くらいはします。
 というか、胸元というか、ネックレスを突っついてくる師匠の指。そんないつものやり取りでさえ、胸が苦しくなります。

「ほんと? ししょー、私の胸に、ぐっと、なってくれる?」
「――っ!!」

 ごすんと。師匠の拳が、何故かラスターさんにぶつけられました。何故に。
 横っ腹を抱えてしゃがみこんだラスターさん。なぜでしょう。ラスターさんの前だと、師匠に素直になっても恥ずかしくないんですよね。やっぱり、最初に女性として出会ったからでしょうかね。うん。

「ラスターさん、大丈夫です?」
「えっえぇ。なんとか口から腸は出ずにすんでいるわ」

 しゃがみこんでいるラスターさんの横っ腹は、とても痛そうです。
 慌てて腕を伸ばしますが、師匠に阻まれてしまいました。後ろからお腹にまわされた腕は、結構な強さです。見上げると、ぶすりと瞼を落としている師匠がいました。どんなに隠れてても、アイスブルーの瞳は綺麗です。目が合うと、途端、師匠の目元が綺麗に染まっていきました。綺麗な赤に、さらに見とれてしまいます。
 師匠には、ぷいっと視線を逸らされちゃいましたけど。ひどっ!

「あーあほらし。あたしは寝るわね。アニムちゃん、おまけにウィータ、おやすみ」
「はい、ラスターさん。素敵な夢を」
「ありがと」


 いつものように。ふっと柔らかく微笑まれたのにあわせて、私の心にもぽっと灯がともりました。ラスターさんの微笑みは、まっすぐであたたかいです。ルシオラが大好きなのも、頷けます。
 お腹を抱えていた師匠の腕をほどいて、一段下がると――。

「――っえ?」

 頬に感じた予想外のぬくもりに、だらしなく口が開いてしまいました。
 覚えのある感触だけど、与えられる人が違う。決して押し付けがましくない柔らかさ。思いがけない触れあいに、思考回路がストップです。

「ラスター、てめぇ!! だれが許した!!」

 おっつ。私を挟んで、師匠がラスターさんに掴みかかります。けれど、あっさりとすり抜けられました。おぉ。ラスターさん、忍者のようです。かっこいい!
 ほっぺたなので、全然問題ないのですけど。というか、私、この世界での挨拶範囲を未だに理解してませんでしたね。そういえば。

「うふふ! これがなきゃ師弟交換の締めにはならないわよね! ってことで、じゃーねー」

 挨拶を残して。ラスターさんは颯爽(さっそう)と別館へ移動していかれました。
 あまりにも軽い様子に、いやらしさは全く感じませんでした。師匠と目があっても、笑うことしか出来ません。一方の師匠は、めちゃくちゃ不機嫌でしたけど。何度も、ラスターさんの唇が触れた箇所が拭われます。その摩擦にさえ、体が疼きます。

「私も、寝るです。お水は、いいや」
「そーしろ。オレも久しぶりの魔法生成で疲れた」

 ぐったりと、肩を落として離れた師匠。冷気が漂う廊下では、ちょっとした温度の差も、痛いくらい身に染みてきます。
 師匠ってば、人前ではくっついてくるのに、二人っきりになると即座に離れるんですよね。ちょっと悔しいです。うーん、悔しいとも違いますかね。もっと近づきたくなるというか。
 どうしていいのかわからず。とりあえず、思いついたことを行動に移すことにしました。

「ししょー、おやすみなさい」

 くっと踵をあげて。形の良い唇に、自分のモノを寄せてみました。本当に軽く、ふにっとぶつかり合うくらいにですけれど。それでも、触れ合っている数秒で、涙が込みあげてくるくらい、幸せを感じられました。
 至極勝手な覚悟を込めての、おやすみの口づけは。寒さに体が震えるまで、続きました。

「……珍しいじゃねぇか」
「ししょー、やきもち妬いてるから。たまには、ね」

 一歩後ろに下がって。ぐっと近づいてきた師匠の唇。
 けれど、私の意思を尊重するように、同じ深さでだけ触れ合ってくれた師匠に、胸が苦しくなります。
 あぁ、やっぱり、私は師匠が大好き。大人だなって思うよりも、寄り添ってくれているって思う幸福感。

「ぬかせ」
「うん。ししょー、大好きだよ!」

 ぎゅっと。力の限りを込めて、師匠の体に抱きつきます。着やせして見える、意外に筋肉がついている体。ちらっと視線をあげると、似合わない童顔が真っ赤になって私を睨みつけてきていました。
 たぶん、私は師匠以上に茹で上がってると思います。幸せに蕩けちゃってると思います。

「……あほアニムが。その無防備さは、身の危険なんざ、これっぽちっも感じてねぇ余裕からかよ。あれだけ警告してやってんのに、随分と舐められたもんだな」

 おぉ! すごく黒い笑い! 来ました、魔王さながらのあくどい笑い。口から黒い煙が出てきそうな重々しい雰囲気です。

「違うよ、ししょー。私ね、襲ってくれても、良いって思ってるからだよ?」
「――っ!」

 果たして。呆然と立ち尽くした師匠に口づけをして、私は逃走をはかったのでした。




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