12.引き篭り師弟と、南の森の花畑7
師匠の声はあまりに低くて。身から出た錆(さび)とはいえ、冷や汗が止まりません。
忘れてないと告げたきり、言葉をかけない私に痺れを切らしたようです。おなかの前で握られている師匠の手に力が込められました。ついでにと、肩口に顔を埋められます。首筋がくすぐったいです。
その拍子に、首にしがみついていたフィーネとフィーニスが、胸までずり落ちてしまいました。そのまま、膝の上にお行儀よく座り込みました。
「なんで、急にあんなこと言い出したんだよ」
『あんなこと』とは、私が元の世界に戻ったら寂しく思ってくれるのか、という言葉でしょう。ほんの少し、責める口調で零された声が、胸をぎゅっと締め付けてきました。
ごめんなさい、師匠。
ここ最近、急に師匠との距離が近づきました。弟子意外の方面で。
けれど、時折ですが、師匠は口にします。私が帰る術を探しているけれど、まだ見つからないと。なので、ここまで落ち込ませてしまうなんて、予想出来なかったんです。本当に浅はかで、ごめんなさい。
でも、これだけは聞いておきたいんです。
「ししょー、例えば、私、この世界残った、としてね。元の世界の記憶、忘れなきゃいけない、思う? 必要ない、思う?」
この世界に残ると決めるのに、とても大切な要素のひとつです。師匠は、前の世界の言葉や洋服を封じたりしますが、私の思い出話しはちゃんと聞いてくれます。自分から聞きだそうとするのはめったにないですが、私が大切に思っている家族の話にだって、耳を傾けてくれます。……複雑そうな顔はするけれど。
ただ、カローラさんが口にした『前の世界の記憶や価値観は必要ない』という言葉が、頭の片隅にこびりついて、不安を煽ってくるんです。
「話、逸らすなよ」
体を起こした師匠は、すばやく私の前に移動してきました。じろりと睨まれてすくみあがってしまいますが、私も負けてはいられません。
師匠をじっと見つめます。
「そらすない。これ、さっきの質問、繋がる」
いつもよりきつめな語気になってしまいました。
師匠はしばらく押し黙っていましたが、ややあって小さく息をもらしました。後頭部をかきながら、フィーネとフィーニスを順番に撫でました。
引かない姿勢が功を奏して、真剣さが伝わりはしたみたいですね。
「フィーニス、フィーネ。お前ら花冠がとれてるぞ? 拾って来いよ」
「ほんちょだ!」
「踏みつけてたら大変ぞ!」
必死にしがみついてきていた二人。きっと、私で頭をいっぱいにしてくれて、花冠がとれたことにも気がついていなかったんでしょうね。
垂れた耳を、てしてし後ろから前へと撫でたかと思うと、勢い良く飛び上がっていきました。小さな花冠は、草に埋もれてしまっているかもしれませんもんね。
フィーネとフィーニスが私たちから離れたのを確認した師匠は、咳払いをしました。
「オレが言うのもなんだが、まぁ、必要ないだろ」
『必要ない』。言い辛そうに紡がれた言葉。
どっどっど、と。心臓から一気に血液が流れ始めて、とんでもない吐き気が襲ってきました。
頭を殴られるより強い衝撃。すぱんと、心の神経を切られたように目の前が真っ白になります。実際、涙で視界が歪んでいます。聞いたのは自分なのに。
「アニム、違うって! 言い方が悪かったよ! 必要ないってのは、忘れる必要がないって意味だって!」
あぁ、よかった。私、早とちりしすぎですね。
晴れた視界に映りこんできたのは、この上なく動揺している師匠でした。ぶわっと吹き出ている汗が、師匠のうろたえ具合を表しています。
よほど、私はひどい顔をしているのでしょう。両頬を包み込んで、目元を拭ってくれています。
「でも、ししょー、『私の世界』言うと、不機嫌なるし。この間も、理由、教えてくれなかった」
過去の記憶から戻って目を覚ました時、同じ質問をしました。師匠は答えてくれましたが、欠片がどうのこうのと、正直全く理由は判明しませんでした。私的には。
師匠の太ももに手をついて、ぐっと体を乗り出します。半分浮きかけていた師匠のお尻が、すとんと草の上に戻っていきました。そのまま、師匠は俯いてしまいました。
私の頬から離れていった手は、そのまま、胡坐をかいた師匠の足首を掴んでいます。
「――ちだよ」
吹いた風に攫われてしまった、囁き。
「え?」
間髪いれずに聞き返してしまいました。だって、声は下に落ちているし、風に遮られて言葉尻だけしか聞き取れませんでした。
すると、師匠の顔が勢い良くあがりました。あまりの迫力に、きょとんと目が瞬きます。
だって、師匠といったら。首まで真っ赤に染め上げて、これでもかという程、目が細まっているんです。口は見慣れた様子できつく結ばれていますが、いつもと違って思い切り左下に落ちています。
「ししょー?」
首を傾げると、頑なな様子で閉じられていた口がゆっくり開かれていきました。思い切り、息が吸い込まれます。
肺が限界まで酸素を吸い込んだのかというくらい胸が膨らむと、師匠の動きがぴたりと停止しました。
「だから、単なる、やきもちだってんだよっ! 大人気なくて悪かったって!」
やけっぱち気味に吐き出された叫び声が、頭の中で木霊します。
えっと。あの。思考がうまく働かないんですけど。まさにあほ弟子という形相で、口を大きく開けたまま微動だに出来ません。
今、師匠は『やきもち』って言いましたか? 私の空耳じゃないですよね。ってことは、あれですか。異質なモノは異質を呼ぶというのも、元の世界の服を着せたくなかったのも、『私の世界』じゃなくって『元の世界』って言わせたがっていたのも。全部、ぜーんぶ、やきもちだったんです……ね?
「おい、アニム、黙ってねぇーで、なんとか言えよ」
「……にゃん、とか、わん」
「にゃんって子猫たちみてぇだな。って、そうじゃねぇーよ!」
まだ頬を染め上げた師匠が、再び大声をあげました。が、私の体はぴくりとも震えません。
だって、だってですね。今、私の脳内では、意味が理解出来なかった、師匠の言葉が繰り返し再生されているんです。熱でうなされていたはずなのに、あの時の師匠の声色から表情、香りまでリアルに蘇ってきています。
『興味を抱いている。だから、そいつを知りたいと思う。関心がない事柄より、興味がある内容の方が頭に入るよな』
召喚された『私』に興味を抱いてくれた。『アニムさん』として欲しいのでなく、『私』自身を知りたいと思ってくれた。そう思って、いいの?
師匠は、他のだれでもなく目の前にいる『私』を――。
『だけど、知識欲が満たされるつーかさ。一を形作っている欠片を吸収する度――自分の中で穴が埋まっていく程、自分が実際、過去の欠片として並んでいなかったのに、その、つまり、なんだ。もやっとするわけだ』
一は、私。欠片は、私の思い出や元の世界の記憶。
師匠がそれらを知っていく程、私の歩んできた人生の傍にいなかったのを悔しいと思ってくれた。もやっとしてくれた。
美しい花畑の百年前の光景を聞いた時、百年前の師匠の傍にいたかったと零した私と、同じ思いを抱いてくれていたんですね。
「なぁ、アニム。聞いてなかったとか言いやがったら、さすがのオレでも立ち直れねーんだけど」
師匠は、先ほどと変わらない色で睨んできています。蒼い空を背負った師匠は、いつも以上に鮮やかな赤を纏っている気がします。
否定の言葉を口にしようと試みますが、まだ声は出てくれませんでした。慌てて大きく頭を振ります。
師匠は、一瞬だけほっと眉を垂らしましたが、またすぐに「なら、なんで黙ってるんだよ」と唇を尖らせました。
元の世界を私の世界と言い表す度、怒っていたのもむすりとしていたのも、全部やきもち。いくら師匠が言霊にこだわるとはいえ、些細な表現にまで心を揺らしていてくれていたってこと。
「ありゅじー! 花冠、無事だったのじゃ!」
「おー、よかったなぁ」
「あるじちゃま、お顔こわいでしゅけど、ぐったりしてましゅね」
再び花冠を被った愛らしいフィーネとフィーニスが、戻ってきました。フィーニスが、こてんと頭を前に倒す姿は愛くるしいです。広げられた手がパタパタ振られているのも、最高に愛らしい。
フィーネは尻尾を揺らしながら、師匠の顔を肉球で押しています。
「ところで、やきもちってなんじゃ?」
「あっ――」
師匠、さらにダメージを受けたみたいです。誤魔化しでしょうか。飛んだままのフィーニスの喉を、疲れた顔で撫で始めました。
人払い――猫払いなのかな。折角猫払いしたのに、結構な大きい声で叫んでましたもんね。
師匠の気がフィーニスたちに逸れたからでしょうか。じわじわと師匠の言葉を実感してきました。師匠は私を知りたいと思ってくれた。知ったからこそ、やきもちを妬いてくれていた。決して、元の世界を忘れろというのではなく、ただ、やいてくれていただけ。
「だって。私――」
やっとの思いで絞り出した声は、ひどく震えていました。嬉しさで喉が詰まります。
「おっおい、アニム! 泣いてるのか?」
「あにむちゃ、どーちたの?」
「あにみゅ、寒いのぞ?」
三人に矢継ぎ早に質問されて、笑いがこみ上げてきました。嬉しさと、おかしさと。なによりも、幸せな想いが心を満たしてくれます。
『アニムさん』の存在から完全に解き放たれたわけではありません。けれど、もう気にしないことにします。だって、師匠が『私』を見てくれているのが、これ以上ないくらい伝わってきましたから。だって、もし純粋な『アニムさん』が欲しかったのであれば、あれこれ理由をつけて、元の世界の話なんて一切させなければいいはずです。
師匠に、私を好きになってもらえるよう、私らしく頑張れば良いんですよね。
「ししょー、フィーネ、フィーニス」
「ん?」
きっと、今の私はとてつもなく変な顔だと思います。
でも、いいんです。
嬉しさと幸せが押し上げる涙も、あがっていく頬も。止めることなど考えずに、微笑みます。微笑みなんて綺麗なものじゃないとは思いますが、今、心の中で生まれている気持ちをそのまま滲ませた笑顔だと思うから。
師匠が仰天して固まるくらいの笑い方でも……うん、いいや。ちょっと傷つくかもしれませんが、それを吹っ飛ばしても溢れ続けてくるくらいの幸せなんですもん。
「ありがとう!」
「って、おわ!」
不意打ち気味に師匠に飛びつくと、二人して倒れこんでしまいました。草がつぶれる音が、耳のすぐ横から聞こえてきました。ごめんね、草さんたちよ。
私はいつも通り師匠がしっかり支えてくれたので、無事です。どくこともせず、師匠の胸に擦り寄ると、いつもより早めの心音が響いてきました。幸福の鐘ですね。
「ありゅじ、大丈夫なのぞ?!」
「いちゃい、いちゃい?!」
「思い切り飛びつきやがったな、アニム」
語調は怒っている風ですが、抱きしめてくる腕はとても優しい力です。
ちらりと視線をあげると、フィーニスが師匠の顔に前足をついて心配していました。フィーネは、よしよしと師匠の頭を撫でてあげています。
仕方がないので、ごろんと師匠の横に落ちました。師匠の方を見て、ふへへと笑いを零します。
師匠は仰向けのまま、掌で顔を覆っていますが、隙間から私を見てくれました。
「ありがとうの意味が、理解出来ねぇんだが……」
「やきもち、妬いて、くれて!」
「いや、もっとわかんねぇーし」
あらら。言葉が率直過ぎて、心の内が伝わりきらなかったんですね。
寝転んだまま腕を組んで考えてみますが、ありがとう以上の言葉は見つかりません。ならば、嬉しかった内容を全部口に出すしかありませんね!
ちょこちょこっと近寄ってきたフィーネを胸に抱いて起き上がると、甘い香りがしました。
「私、知りたい思ってくれて、ありがと。私、見てくれて、ありがとう。元の世界、忘れなくていい、ありがと! おまけ、ぜーんぶ、ありがと!」
起き上がった師匠に、ぐいっと詰め寄ります。出会ってくれてありがとう、とも言いたかったのですが、気恥ずかしさが残ってしまったので、『全部』に含ませて頂きました。
てっきり身を引かれると思っていたのに、逆に腕がまわってきました。意外です。バランスを崩してしまい、横座りの状態で師匠に抱かれる形になっていました。
フィーネがつぶれなくって一安心。ふぅと息を吐いて師匠の肩に頭を置くと、師匠が私を食い入るように見ていました。あまりに強い視線で、心臓がこれでもかという程、大きく跳ねました。飛び出してきそうです。最近、私の心臓はフル活動してます。
見詰め合ったまま、視線を逸らせません。このままだと全身が沸騰してしまいそうなのに。
ゆっくりと近づいてくる、師匠の顔。触れてくるだろう柔らかさが容易に想像できて、そっと瞼を閉じました。
「ちゅまり、あにむちゃは、しゃーわせなんでしゅか?」
「よくわからんが、あにみゅが幸せなら、ふぃーにすたちも、嬉しいのじゃ!」
ぺちっと肉球が弾む音が聞こえて、はっと目を開けてしまいました。そうでした! 近距離でフィーネとフィーニスが見ているんでした!
おかげで、目の前まできていた師匠と、ばっちり目があいましたよ。と、お互い、火の出る勢いで頬が染まっていきます。二人の世界に入りかけていた自分たちが恥ずかしい!
師匠と私は揃って、音を立ててそっぽを向きます。私はフィーネを撫でまくります。
「そう、そう! 幸せ! 私も、フィーネたち、嬉しいなら、嬉しい!」
「そーか、そーか。とにかく、アニムを悩ませてた問題が解消されたなら、よかったぜ」
あっ、そうだ。私、悩んで落ち込んでたのでしたっけ。
私が帰る方法を師匠が探しているのは事実ですし、帰るなとはっきり口にされたわけではないです。私も家族への思いなどに心を揺らしているので、この世界に残るとはっきり決められたわけでもありません。
でも、帰るのか残るのか決断出来るまで。私は私として一生懸命、師匠の隣で日々を過ごしていこう。少なくとも、『アニムさん』の影に嫉妬するのは、やめましょう。
あんなに気を病んでいたのに、今は前向きな考えしか浮かんできません。
「ふみゃあ」
「フィーネ、おねむ?」
「でしゅの」
フィーネが体を震わせたかと思うと、船を漕ぎ出しました。こっくりこっくり。
今日はいっぱい動き回ったし、お手伝いもしてくれましたもんね。花飾りを作るために、朝からずっと飛び回ってくれていたのですよね。お昼寝もせずに。
明日は、フィーネとフィーニスのご希望のお菓子を作りましょう。
「ふぃーにすも、にゃんだか、ぼんやりしてきたのぞ」
「おぅ。まだしばらく日は出てるだろうし、起きられなくても連れて帰ってやるからさ。安心して寝とけ」
目を擦りながら「んみゃ」と鳴き声をハモらせた二人は、あっという間に夢の世界に沈んでいきました。抱きかかえている指に顎をのせて眠る姿が可愛すぎて、掲げて正面からじっと見つめてしまいます。眼福。
膝に乗せて背中を撫でると、じんわりとあたたかさが染みてきました。私も欠伸を堪えられません。
「泣きつかれて眠くなったんだろ。お前も寝たらどうだ?」
「ししょー、お昼寝済み。私、働き疲れたの!」
「へいへい」
聞き流されてますね、完全に。びしっとバスケットを指差した私におかまいなしな様子で、フィーニスを渡してきました。
師匠は意地悪な笑みを浮かべつつも、マントを敷いてくれているので許してあげましょう。大き目のマントを軽く叩かれます。遠慮なく寝転がろうと腰をあげますが、何故か師匠まで寝る体勢に入りました。しかもですね。腕がですね、伸ばされてるんですよ。
「ししょー、その腕、一体全体どういう呪い」
「優しいお師匠様が、腕枕してやるよ。つーか、察しろ」
腕枕! 腕枕とは、恋人がベッドの中でしてくれるという、アレですか?! いや、ベッドの中に限定するモノじゃないかもしれませんが。私が持つ乏しい恋人知識では、いちゃいちゃの効果音が大きい行為です! それを、私がしてもらう?! しかも、初めてが野外ですと?!
師匠に添い寝はしてもらいましたが、腕枕はさすがに無理です。添い寝も十分、恥ずかしいとはわかってはいるのですが。寝ながらいちゃいちゃなんて、私にはハードルが高すぎますよ!
「ししょー、湯たんぽない、自分で言った。私、フィーネやフィーニスと、一緒寝るですよ。起きて腕あがらない、悲惨」
「うっせぇ。根に持ってやがったのかよ。第一、オレの言わんとしている真意を理解してないアニムが悪い」
「うるさいないよ。真意って、なに」
むすっと頬が膨らみます。湯たんぽに、文字以上の意味があるのでしょうか。ちょっと考えてみます。けれど、さっぱり検討がつきません。
フィーネとフィーニスの毛をいじりながら、小首を傾げます。そんな私を見て、師匠は溜め息をつきました。ひどい。
「あー、もういい。とりあえず、フィーネとフィーニス寄越せ」
瞼を落とした師匠は、私の返答を待たずに二人を攫っていきました。わずかにですが、軽くなった膝を残念に思う隙もなく、上半身を起こした師匠に抱きすくめられていました。
気がつけば、黒いマントに横になっているじゃないですか。もちろん、師匠の腕枕付きですよ。
「ししょー?!」
「ほれ、観念して寝ろ」
反論しようと開きかけた唇に、師匠のモノが触れてきました。
離れた師匠はとても優しい笑みだったので。素直に力が抜けてしまいましたよ。体を密着して寝るより、下手に顔を見られる距離というのは恥ずかしいですね!
耳が熱くなるのを感じて、俯いてしまいます。
「あれ、フィーネにフィーニス。起きたの?」
「みやぅ」
師匠によって頭の上あたりに寝かされていた二人が、ふらふらと間に入ってきました。てっきり起こしてしまったのかと申し訳なくなりましたが。
「寝ぼけてやがるな」
師匠の言う通り。触れた手に擦り寄られたかと思うと、再び、気持ち良さそうな寝息が聞こえてきました。
二人の可愛い寝息に引かれ、私もふわふわです。
「おやすみ、アニム」
「ししょー、も、おや……すみ」
「おう」
髪を撫でられ、あっけなく意識を手放しました。
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