引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

  

10.引き篭り師弟と、名前の意味2


 椅子にもたれて肌にタオルを滑らせていると、生き返ります。ハーブの香りが、緊張と疲労も拭ってくれるようです。
 洗面器状の器に張られたお湯。その中に数滴垂らされているのは、エルバとも呼ばれるハーブから作られた精油です。ほんのり甘い匂いが、呼吸を整えてくれます。
 一通り拭い終わる頃には、汗でべとついていた体が、大分さっぱりしました。髪用のタオルを手に取ると、一段と強い香りが広がりました。あらかじめ、タオル自体に大目の精油を染み込ませてあるみたいですね。

「ふぃ。気持ちいい」
「そりゃ、良かったな」

 吐き出される息に混じるほどの独り言にも、師匠は律儀に返事をくれています。
 夢の中では、目の前にいても、全く見てくれなかった師匠。当たり前ですけれど、『アニムさん』のこともあり、とても辛かったです。
 でも、今、私の傍にいる師匠はただの呟きにも言葉をくれています。私が弱っているからと考えてみますが。師匠は、普段から私の声に耳を傾けてくれています。改めて、実感しました。

「ししょーもウーヌスさんも、ありがと」

 どうしてでしょう。嬉しいはずなのに、ころんと雫が頬を滑りました。今日だけで、一生分の涙を流した気がします。私、涙腺は弱くなかったはずなのに。
 そういえば、友達の亜希が、恋をすると心が弱くなると愚痴っていたのを思い出します。恋愛経験の多い千沙は、感情の起伏が激しくなるだけよと、大人びいた微笑を浮かべていました。恋愛などしていなかった私は、パフェを頬張りながら、大変だねと人事のように聞いていた覚えがあります。
 こんなことなら、千沙の恋愛講座をきちんと聞いておくんでした。

「この間、お前が摘んできたエルバを使って、ウーヌスが作ったらしいからな」

 さすがウーヌスさん。
 本当は魔法調合も家事も、私が手伝う必要なんてないくらい、何でもこなす式神さんなんです。思うところもあるでしょうに。私に任せたり教えたりしてくれているんです。頭があがりません。

「ウーヌスさん、ほんとに器用。精油、嬉しい」

 私が摘んできたエルバも、師匠から頼まれたモノとは違っていたんです。茎や花は似ていたのですが、根っこ本数が間違っているのに気がつかなかったんです。ウーヌスさんは、しょんぼりしている私を見て、「ちょうど私が摘みに行こうと考えていた物です」と引き取ってくれたんです。
 でも、私、知ってました。たくさん、ストックがあるっていうのを。
 私は、本当に恵まれた環境にいるのだ。髪を拭く手に、力が入りました。

「明日、伝えておく。それか、直接言ってやってくれ。あいつ、喜ぶぜ」
「もしかして、ウーヌスさん、もういない?」

 パーテンションから目だけを出してみると、ウーヌスさんの姿は見当たりませんでした。フィーネやフィーニスを膝の上で愛でている師匠とだけ、目が合いました。師匠は、ベッドに腰掛けています。
 てっきり背を向けて座っていると思っていたので、一瞬、ぽかんと呆けてしまいました。まぁ、体は見えていないので、大丈夫ですよね。
 でも、師匠的にはアウトだったようです。じとっと、睨まれてしまいました。

「あほ弟子。恥じらいつーもんを、汗と一緒に流したのか」
「ちょっと顔出しただけ。ししょー、こっち向いてるの方、すけべ」

 本心ではありませんけれど、売り言葉に買い言葉。つい、いつもの調子で返してしまいました。
 言い逃げよろしく、早々に顔を引っ込めます。てっきり追撃がくると思っていたのですが、聞こえてきたのはフィーネの寝言でした。師匠は寝言に笑いを零しています。

「ししょー?」
「ん? あっ、あぁ。背中向けてたら、お前の異変に気がつくの遅れるだろ? つーか、そんなこと良いから、早く終わらせろ。調子こいて裸でいると、熱があがるだろうが」

 師匠ってば、どこまでも過保護です。いくら風邪をこじらせているとは言え、話している最中に突然ぽっくりいくわけないのに。
 でも、そうか。私の場合は、魂と体の定着とか、色々諸事情がありますもんね。人一倍心配にもなりますよね。もし、逆の立場でも、同じように不安になると思います。
 ウーヌスさんがタンスから出してくれていた新しい下着と夜着を身につけると、わずかに爽やかな香りがしました。ウーヌスさん、服にも違うエルバの精油をかけてくれたようです。素敵な心遣いに、嬉しくなります。

「ししょー、終わったよ。脱いだやつ、籠入れっぱなし、ほんとに大丈夫?」

 片付けから何まで任せっきりなのは、若干気が引けてしまいます。かと言って、今寒い廊下を歩き回れば、熱があがるのはわかりきっています。
 汚れ物やタオルが入った籠の前でしゃがんでいると、師匠が欠伸交じりに苦笑を漏らしました。

「後からウーヌスが回収してくれるさ。置いとけ」
「いたれりつくせり。感謝感激雨霰(かんしゃかんげきあめあられ)」
「なんだ、それ。また元の世界の語呂か? お前、変な部分にばっかり、応用きくよな」

 師匠は口元を抑えて、呆れたように笑いました。
 カローラさんは、元の世界と私は切り離されなければいけないとおっしゃいました。私は、そんなの絶対おかしいと思いましたし、現在進行形です。
 でも、師匠はどうなのだろう。自分の中では確固たる考えだと思っていることも、師匠を絡めると、途端自信がなくなってしまいます。もし、師匠が捨てろと言ってきたら、いつもの軽口みたいに、師匠が変だよと言い返せるのでしょうか。
 だから、たった今、師匠がさらりと笑ってくれたのはとても嬉しかったです。片眉を下げて肩を揺らしている姿に、喉がきゅっとなります。

「ほれ、突っ立てないで。こっち来いよ」

 私は、パーテンションの横に立ちすくみ、師匠に見惚れてしまっていたようです。
 師匠は抱き上げていたフィーネとフィーニスを、枕元に寝かせています。私を気遣ってくれたのでしょうか。確かに、二人の体温と甘い香りが近くにあれば、悪夢を見ずにすみそうですもんね。
 ですが、再びベッドの淵に腰掛け直した師匠は、自分の方へ手招きをしています。とにかく、一度横に座れという指示でしょうかね。
 躊躇(とまど)いがちに、少し重い足を踏み出します。けれど、師匠は両手を広げました。しかも、どこか楽しそうです。

「え、あの、ししょー?」

 後一歩前に進めば、師匠の足の間に収まってしまいそうな距離に来ても、腕が降ろされることはありません。
 私は無意味に裾を握って、まごついてしまいます。私にどうしろと。
 すると、私を見上げていた師匠の表情が、ふっと柔らかいモノに変わりました。少年のようだった笑みは、おだやかであたたかい眼差しに衣替えです。眠たそうに落とされている瞼が、それを強調しています。

「アニム、おいで」

 正面きってアニムと呼ばれ、つきんと胸が痛みました。
 けれど、感じた苦味を押しのけるほどの感情がわきあがってきます。心の底からこみ上げてくる、身を焦がすような想い。ちょっと荒くなってきた息が、暖炉の火と交じり合ったように、熱を含みました。
 気がつけば、吸い寄せられるように師匠へ抱きついていました。

「よしよし。家族の夢でも見て、恋しくなったのか?」

 先ほど私がさらした醜態のせいでしょう。『家族』という言葉だけ、わずかに硬く発せられたように感じられました。
 それはそうですよね。師匠には雪夜や華菜の名前はもちろん、家族の話もたくさんしてきました。最近は話題にする機会自体減ってきていましたが、召喚された直後は特に色々話した気がします。

「思い切りお子様あつかい」
「恨めしそうな声出しつつも、擦り寄ってきてるのは、どこのだれだか」

 師匠の足の間に座り込み、というよりは跨(またが)っているに近い姿勢は、結構恥ずかしいです。
 でも、腿の内側に感じる師匠の体温も擦り寄っているのも、全部子ども扱いされても仕方がない格好のおかげだと思うと、羞恥心などかなぐり捨てられました。
 師匠の胸にくっつけている頬から、ちょっとだけ早めの鼓動が響いてきます。夢じゃなくて、私は現実にいるのだと教えてくれる心音。師匠の背中を掴む指を、ぐっと曲げます。
 素直じゃない言葉を吐く私に、同じような台詞を返しながら。師匠の手は、優しく髪や背中を滑っています。

「アニム……」
「うん?」
「ごめんな」

 師匠は『何が』とは言わず、耳元で囁きました。
 反射的に顔をあげかけますが、強く頭を抱きこまれてしまいました。緩やかに背中を滑っていた手が、強張った調子で体をきつく絞めてきます。
 師匠は、どうして謝るのでしょう。前は、無関係の私を術の失敗に巻き込んでしまったからだと思っていました。けれど、事実は違った。そもそも、師匠が何を持って私に失敗と言っているのか。その真意も、気にかかります。
 師匠が、私ではない『アニムさん』を望んで意図的に召喚したのを悲しく思えども、師匠を恨みはしません。
 ですから、どう何を伝えて良いのか、さっぱりわからなくなってしまいました。軽口で慰めも出来ません。
 ただ、私がしたことと言えば、一心に頭を振っただけでした。

「……理由はわからねぇけど、この世界とアニムの存在固定が急激に進んでる。アニムの情緒が不安定になってるのは、今まで現実味が薄かった次元超えを、魂や体が実感しちまってる影響かもしれねぇ」

 解釈が難しいですけれど。たぶん、師匠は、思考にも魂や体の状態が影響してくると言っているんですよね? 
 体はともかく、魂という概念は、元の世界ではいまいち馴染みがありませんでした。なので、そちらに重きを置いて、自分を無理にでも納得させておきましょう。深く考えると、どつぼにはまってしまいまそうです。
 頭の中で自分を納得させていると、どうしても無言になってしまいます。口を開かない私を見て、師匠が眉間に皺を寄せました。

「今まで、あんまり家族を思い出さなかったのは、アニムの存在が宙ぶらりんになってたからかもな。だから、オレも触れなかったんだが……話しておけば、あんな風に動揺して泣かせることはなかったかも知れねぇのに。悪かったな」

 少し低めの声で話す師匠。師匠の背中で軽く手を弾ませると、腕の力が緩まりました。
 体を起こすと、師匠は予想以上に真剣な目をしていました。いつものように解説してくれている時の目にも見えますが。アイスブルーの瞳が訴えかけてきているようにも思えました。
 私の中にある、何かを探っているように感じてしまうのは、会話を盗み見た罪悪感がもたらしているのかもしれません。

「急激、進んでる? それ、私、この世界馴染んでるって、意味?」

 図らずも、明るい声調になっていました。
 この世界に自分が馴染んできている。受け入れてもらっているという事実に、心が躍ります。それと同時に、いつも私の気持ちを敏感に察してくれるくせに、変なところで理屈っぽい師匠が、おかしかったんです。もしかして、無意識なのでしょうか。
 馬鹿にしてるとかじゃなくて、純粋に嬉しくて、くすぐったかったんです。

「お前としては、喜ぶところじゃないだろ……確かに、オレには都合が良いが」

 耳を掠めた声。頭の中で反芻しようと試みますが、深く考えては駄目だと脳が拒否してしまいました。ふわふわして、頭が回りません。
 仕方がなく、緩む頬のまま、師匠の顔を覗き込みます。

「ししょー、何か、言った?」
「いや。熱が下がったら、話す」

 師匠の体から力が抜けていきます。にやけている私に、面食らったんでしょうかね。
 私の腰を掴んでいた手が、頬にあがってきました。顔に髪がかかっていたようで、耳にかけてくれたみたいです。私としては、近距離で触れ合っている状態に加え、喜んでいる顔まではっきり見られるのは恥ずかしいのですが。

「それより、お前、変な植物とか魔石とかに触れたりしてないよな」

 『変な植物』という言葉に、馬鹿正直に反応してしまいました。ついっと、視線を逸らします。
 もしかして、存在の固定が進んだのって、カローラさんが意識に入ってきた影響かもしれません。師匠の魔力と私の魂が癒着するお助け役になったとか?
 けど、カローラさんの件を話すと、芋づる式に夢の内容も語る形になってしまいそうです。誤魔化せる自信、ありません。

「おい、アニム。まさか、本当に拾い食いとかしてねぇよな?」
「ししょー、私、なんだと思ってる。それはさておき、ししょー、さっきの、ちょっと違うよ」

 あからさま過ぎる話題逸らしでしたね。私の髪を梳いていた師匠が、不審げに手の動きを止めました。
 でも、ここは勢いです!

「ししょー、私、家族のことで、ぴーぴー泣かなかったは、存在が宙ぶらりん、だから言った。確かに、家族への意識薄い自覚あった。元の世界に……帰りたい、も強く思わなかったの、自分でも、ちょっと不思議思ってた」
「……ん」

 師匠から、小さな返事が漏れました。消えそうな声に、なにやらまずいことを言ったかと焦ってしまいます。
 でも、ちゃんと自分が抱いていた疑問と一緒に、気持ちも伝えたいんです。
 じっと次の言葉を待っている師匠の後ろには、心地よさそうに寝息を立てているフィーネとフィーニスがいます。フィーネは横向きで手をクロスして、フィーニスは仰向けで大の字になっています。心が和みます。

「召喚されたばかりの頃。ししょー、家族や私の世界の話、いっぱい聞いてくれた。だから、自分しかわからない孤独感溜め込んで、号泣するなかった。うるっとしても、ししょーや赤ん坊フィーネたち、慰めてくれたもん。ありがとう」

 拙い言葉ですけど、この世界の言葉で一生懸命伝えます。そういえば、こんなこと、随分前にもあった気がします。
 複雑そうな顔で固まっている師匠の両手を、ぎゅっと強く握り締めます。私と師匠の手の大きさには差があるので、完全には包み込めません。でも、言葉だけじゃなくって、私という存在も一緒に伝えたかったんです。

「えっと、つまり。さっき子どもみたい泣いたは、久しぶり、家族の夢見たから。それに、熱出てる、弱ってたから。でも、ししょーたち、これ以上甘える、良くない思ったの」
「あほ弟子が。弟子が師匠を頼らずに、だれに世話になんだよ」

 私が師匠の両手を掴んでしまっているからでしょうか。額同士が、ぐりぐりと擦り合わせられました。おぉ。熱が師匠にうつっていって、気持ち良いです。
 ではなく。怖い目つきの師匠が、間近にいらっしゃいます。けれど、口元を見ると、ただ拗ねているだけなのかなとも思ったりです。

「だって。最近、ししょーってば、私の世界って言う、不機嫌なる。どうして?」
「あー、悪かった。それは、まぁ、なんだ。気にするな」
「無理、教えて」

 ずいっと顔を前に出して追撃します。が、あとちょっとで唇が触れそうな距離に、呼吸が止まりました。そりゃ、おやすみの挨拶は何度もしてますけど、目を開けた状態で師匠のどあっぷはきついです! かっこよくって。しかも、私は変な顔してるだろうし。
 でも、先に体を離したのは、師匠でした。やっぱり私のアップには耐えられなかったようです。地味につらい。

「うっせぇ! オレの事情だ、ほっとけ! お前は気に病むな!」
「えー、納得不可能。ししょーたるもの、弟子の疑問、答えるは義務」

 びしっと指先を師匠に突きつけてやります。あぁ、こんなやり取りに、すごく幸せを感じます。
 師匠から重々しいため息が落ちました。熱がある私より、だるそうです。

「師弟は関係ねぇんだよ」

 ついさっき、師弟を説いていた口が関係ないとおっしゃるのですか。お師匠様。
 思い切り頬を膨らませます。全身で抗議です。
 師匠は疲れた様子で、私の頬を両側から押しつぶしてきました。負けじと、たこ唇になったまま、師匠を見つめてやります。
 さらに脱力感いっぱいになった師匠が、諦めたように掌を振ります。白旗があがりました!





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