引き篭り魔法使いが術を失敗して、巻き込まれてしまいました。

  

10.引き篭り師弟と、名前の意味1


「あるじちゃま、ほんとに、あにむちゃ、これでおっきするでしゅ?」
「あにみゅ、ぷるぷる震えてるぞ?」

 霧の向こうから、フィーネとフィーニスの戸惑ったような声が聞こえてきます。薄っすら霞んだ意識の中、耳を撫でる可愛い声。舌ったらずな発音と一緒に香ってくるお菓子のような甘さが鼻腔をくすぐります。
 フィーネとフィーニスの声を認識出来ているということは、ちゃんと目が覚めかけているんですね!
 顔全体に染み込んでくる、あたたかい体温と程よい重さ。重さはちょうどよいのですけど……口と鼻が圧迫されて、呼吸とまりそうです。

「ぶはっ!!」
「んにゃぁ!」

 がばっと、けたたましい音が響き渡りました。限界を越えて、再度夢の世界へ逆戻りしそうになった刹那。体が跳ね起きました。
 柔らかい布団とあたたかい暖炉の火、それに薄暗い部屋。静かな空間で鳴っているのは、私の荒い呼吸だけ。
 夢の中では健康体だった影響でしょうか。熱によるだるさが、一気にのしかかって来ました。ギャップが、辛さを倍増させた気がします。

「あっ……」

 呆然としたまま、軽い重さを感じている足元に視線を落とします。
 小さくて短い手を万歳にして固まっている、フィーネとフィーニスと目が合いました。小柄な体を無防備に倒し、毛が薄めのぽっこりお腹をさらしている二人。大きな目をさらに膨らませて、微動だにしません。隣には、私の額に乗せられていたのであろう、タオルが落ちています。
 白と黒。同じようなポーズで固まっている二人は、とっても可愛いです。肩で息をしながらも、可愛さには反応してしまいます。

「おっ。やっと目を覚ましたな、アニム」

 呼ばれて、自分でも驚くほど体が飛び上がりました。上質なベッドのスプリングから、抗議めいた音が発せられました。
 ぎこちない動きになったのは、熱で体が痛むからだけじゃない。現実に戻ってきたはずなのに、いまだに夢の中にいるような不思議な感覚にとらわれているから。
 乾いた喉を潤そうと唾を飲み込みましたが、上手くいかずむせてしまいました。
 
「お前、随分うなされてたみたいだが、悪夢でも見てたのか?」

 熱のせいにして視線を落としているので、師匠の表情は伺えません。ただ、からかうような口調に反して、声はとても柔らかいモノでした。
 師匠の手が緩やかに伸ばされてくるのが、前髪の隙間から見えます。考えるより先に、体を後ろに倒していました。
  声を出しても、届かないかもしれない。夢の中みたいに、私の体は通り抜けて、違う「アニム」さんを見ているかもしれない。

「アニム?」

 ベッドの背にもたれかかった重々しい体が、嫌というほど存在を主張しています。それにも関わらず、恐怖が広がっていきます。
 反射的に、頭を振っていました。体が重く、わずかに髪が揺れただけでしたけど。首や額に汗で張り付いてもいて、不快です。
 私は、アニムじゃない。そうとでも、反抗したかったのでしょうか。違います。今、師匠が呼びかけてくれている私が、「アニム」です。
 それに、自分が行く道を決めていないのに、師匠の気持ちを確かめるなんてやめようと、決めたばかりなのに。

「あにむちゃ、おこっちぇる? おかおのうえ、ごろんして、ごめんにゃしゃい」

 何も言わない私を不思議に思ったのか。起き上がったフィーネが、ちょこちょこと近づいてきました。私のお腹の上に座り、不安げに瞼を瞬かせながら見上げてきます。
 いつものように、撫でようと手をあげます。が、私の右腕は数秒の間宙で止まり、ぽすんと横に落ちました。
 自分の体温を吸って、熱を持ったシーツが気持ち悪いです。

「ほっほりゃ! ありゅじが、フィーニスとフィーネが顔の上乗ったら、あにみゅがしゅぐ起きるゆうたからぞ! あにみゅのやつ、めちゃくちゃ怒ってるのにゃ!」
「いや、むしろ喜ぶんじゃねぇかって、思ったんだが。熱で体がだるいだけだろ」

 小さなお口をぎゅっと引き締めているフィーネと、羽根を大きくして師匠の周りを慌てたように飛び回っているフィーニスと。それに、ベッドに腰掛けている腕を組んだ師匠。師匠は夜着です。
 先ほど見た、数日前の看病のシーンと似ています。違うのは、フィーネとフィーニスの体温を感じたこと。
 でも、これは本当に現実なのでしょうか。夢の続きじゃないですよね。もしかして、この世界で生きているのさえ、崖から落ちて意識不明な私が見ている夢かもしれない。
 馬鹿げていると自分を叱咤しながらも、怯えは消えてくれません。

「私、どれくらい、寝てたかな」

 独り言のように呟きます。皆に話かけたら、全部霞みになってしまうんじゃないか。一度抱いた恐怖は、なかなか拭えません。
 こんな後ろ向きな思考、私らしくないです。
 フィーネがきょとんとした後、うるっと瞳を揺らしました。あれ、と思った瞬間。フィーネが自分の頬を、てしてし叩き始めました。涙を一生懸命拭っているように見えます。
 あぁ、そうか。今の私と同じだ。

「フィーネ、違うよ」

 今度は、迷わずフィーネに触れていました。両手を伸ばして、頭を右の親指で撫でます。左手を小柄な体に滑らせると、ふわふわの白い毛が心地よく絡んできました。体よりさらに小さな顔を、顎から頬まで包み込むように触ります。
 最初は「んな」と声をあげたフィーネでしたが、次第に緊張をほぐし自分から擦り寄ってきてくれました。喉が、ごろごろ鳴っています。

「あったかいね」

 ぽろりと零れた言葉。確かに感じる温度に、唇が震えました。
 俯いている私の表情は、良く見えなかったはずです。けれど、フィーネは震えに気がついたのでしょう。柔らかい前足で私の指をとり、ぺろぺろと舐めてくれました。
 少しざらついた舌の感触が心地よくて、瞼を閉じます。

「もうすぐ日が変わるくらいだな。それより、お前。泣き出すわ、激しく寝返りうつわで、大変だったぞ?」

 師匠が傍に腰掛けなおしました。動いた空気から逃げるように、窓の外へ視線を移動させます。カーテンの向こう側は、すっかり暗くなっています。
 夜の静けさの中にまじる薪が爆ぜる音が、大きく響き渡りました。
 私が寝たのがお昼過ぎだったので、長い時間、夢の中にいたようです。
 気がつけば、師匠の顔がすぐ近くにありました。額にくっついている前髪を、払ってくれたようです。つっと、わずかに触れた指先。アイスブルーの瞳に映っているのは、確かに私なのに。夢の中での体験が思い出されて、ぐっと喉が詰まってしまいました。
 なのに。師匠は、さらにと顔を覗き込んできます。

「だいぶ、汗をかいちまってるな。着替えと、あとシーツも変える――」
「ぶにゃ!」

 距離を縮めてきた師匠の眼前に、フィーネを差し出しました。あまりにすごい勢いで抱き上げてしまったからか、フィーネから驚きの声があがりました。ごめんね。
 今度は、師匠の顔にフィーネが張り付いている状態です。
 フィーネを剥がした師匠には、呆れの色が浮かんでいます。フィーネは、師匠の掌の上で仰向けになっています。なんて無防備な姿。
 よほど不可解な行動だったようで、師匠の頭の上に乗ったフィーニスも「あにみゅ?」と心配そうに眺めてきます。

「だいじょうぶ! だから、私、また、寝る! みんなも寝る! 看病ありがと! おやすみ!」

 ぶつぎりに言い放つと、師匠とは反対方向に体を転がしました。風を切る勢いで、掛け布団を頭から被ります。
 これ以上、皆と一緒にいたら、みっともなく号泣してしまいそうなんですもん。ホームシックに加えて、家族に対する掴みどころのない不安。それに、師匠への想い。全部、吐き出してしまいそうで、堪らなく怖いんです。
 呆れられたくない。嫌われたくない。今更、どうして臆病風が吹くのでしょう。

「おやすみって、アニム。あんだけ寝てて、しかも汗まみれで気持ち悪いだろうに」
「いいの! 風邪のとき、汗かくのと寝る、大事。うつるよくないから、今日は、フィーネとフィーニス、ししょーと寝てね?」

 有無を言わせない強さで、一方的に会話をしめます。
 フィーネとフィーニスの寂しそうな「みぅ」と細い鳴き声に、心が痛みました。本当にごめんね。でも、私の心に共感しやすい二人に、こんな醜い不安が伝染するのは嫌なんです。
 深くまでもぐって、体を丸めます。芋虫みたい。このまま、嫌な感情が浄化されるまで、眠っていられたらどんなに良いか。
 しばらくの間、師匠の困ったような声が私を呼んでいました。けれど、私が無反応なので諦めたようです。数回、掛け布団の上から優しく撫でられました。
 そんな触れられ方でも、簡単に涙腺が緩んでいきます。夢の中では触れられないのが悲しかった。けれど、今は、触れられると胸が締め付けられるんです。師匠への気持ちが膨らんでいって、苦しいんです。
 しかも、その度。帰るのか残るのか、はっきり決められていないのに、という自分の曖昧さに嫌気が指します。

「オレたち、今日は隣の部屋で寝るから、体調悪くなったら呼べよ?」
「りょーかい、です」

 頭の上にわずかな隙間を作り、それだけ伝えました。
 ひゅっと流れ込んできた空気が師匠たちの香りを運んできた気がして、すぐに布団を引っ張ります。

「あるりゅじ……」
「しっ」
 
 わずかに聞こえてきたのは、フィーニスの非難めいた声。師匠は、軽くなだめたようです。きっとフィーネは目を潤ませて、泣いているかもしれません。
 私、最低です。看病してもらっておいて……夢の中でも見たように、心配かけておいて。自分が泣きそうだからって、言い訳しながら突き放して。最悪。
 ぽろぽろと零れ始めた涙と一緒に、わずかに嗚咽が漏れてしまいました。右の手を噛んで、声を押し殺します。
 数秒後、ぱたんと、やけに乾いた音と連れて、ドアが閉まりました。
 私の部屋にあるのは、薪が爆ぜる音と自分の嗚咽だけ。冷たい空気が、外の雪景色を連想させました。
 
「――っ!」

 堪えていたモノが、一斉にあふれ出します。うつ伏せになると、シーツに熱いものが染み込んでいきました。シーツに顔を押し付けると、少しですが声が抑えられた気がしました。
 いくら家の構造がしっかりしているとは言っても、夜中の静かな空気を伝って、隣に響かないとも限りません。

「私、ほんと、ばかだ。結局、状況、言い訳にしてるだけ。甘えてる、だけ。人のせい、してるだけだ」

 今の心境だけを考えるなら、当然、残りたいです。師匠の傍にいたい。みんなと離れたくない。
 でも、きっぱり言い切れない。それを師匠の想い人だったであろう「アニムさん」のせいにしたり、世界を知らないからと引き篭っている状態のせいにしたり。何より、家族が待っていると、元の世界を引き合いに出してみたり。
 元の世界をこの世界。どちらも大切なんて、どの口が吐き出すのか。結局、優先順位をつけようとしているのは、私自身です。

「うぅ……! 私、こんな、ぐちゃぐちゃ汚い人間、だって、気がつきたくなかった」

 ほら、何より。師匠に対する想いを否定するなんて、最低。生まれて初めて抱いた気持ちに、心を踊らせていたのはだれなの。
 頭で考えていることと、口から出る言葉が一致しません。布団の中、くぐもった自分の声が、脳を揺らします。

「私なんて――想いなんて、消えちゃえば、いいのに」

 思わず落ちた呟き。
 元の世界に戻ったら、どうなるんだろう。家族や友人、先輩たち。心配しているかな。出来れば、私なんて忘れてくれてると良い。けれど、実際、元の世界に戻って忘れられていたら、どうしよう。
 止め処なく浮かんでくる考えに、目の奥が激しい熱を持っていきます。

「おかあさん、おとうさん、ゆきや、はなぁ。ごめんねぇ……」

 私が帰らないと選択するのは、家族に対する裏切りなのでしょうか。ただ、意味もわからず、謝っていました。
 自分で吐き出した言葉なのに、あとはもう、嗚咽しか出てきませんでした。涙と汗でぐちゃぐちゃの顔。でも、きっと汚いのは私の心の方なのでしょう。

「んにゃあ」
「あっ、こら。お前ら」

 耳をくすぐった甘い鳴き声の二重奏。あぁ、幻聴まで聞こえ始めたようです。フィーネとフィーニスの可愛い声が聞こえるなんて。しかも、師匠の声というオプション付き。
 そこで、ふと気がつきました。そういえば、扉が閉まる音はしたけれど、師匠の足音は聞こえなかった。
 まさか! 汚れた顔を気にもせず、音を立てて起き上がります。

「ふにゃあ!」
「ったく、仕方ねぇなぁ」

 涙で歪んだ視界には、ぼんやりと人影が映っています。前方には、私に向かって飛んでくる二つの物体があります。フィーネとフィーニスが、両前足を広げているようです。
 慌てて目を擦ります。視界がクリアになる前に、肺に衝撃を感じました。
 ぐぇと、可愛くない声を伴って、ベッドの背にぶつかってしまいます。ちょっちょと、というか、かなり痛いです。

「あにむちゃ、ごめんなしゃぁい! ふぃーねのこちょ、きりゃいならないでぇ!」
「ふぃーね、そういう問題ないぞ! でも、ふぃーにすも、謝るぞ!」
「えっ、え? あの、フィーネもフィーニス、どうしたの?」

 胸元から這い上がってきた二人は、私の頬にしばみついて擦り寄ってきます。とにかく一旦離れてもらわないと、二人が私の涙と汗で汚れちゃいます。
 出来るだけ優しく体を掴みますが、嫌々と頭を振られてしまいました。
 柔らかくてあたたかいお腹と肉球は、とっても心地よいです。でも、ちょっとですけど爪がですね、ぴりっと痛かったりしないでもない。これが愛の痛さ。って、違う!

「っていう、ししょー、部屋出てったない?! 詐欺!」

 そこです。掛け布団を被っていたとはいえ、だれもいないと思っていたので、それなりに声量があったような。まさか、全部というか、嗚咽も聞かれてたなんて事態は勘弁いただきたいのですが……!
 フィーネとフィーニスの体の隙間から見えた師匠に、抗議です。けれど、お師匠様は、腕を組んで仁王立ちされていました。据わった目で、殺されそうです。さっき、フィーネとフィーニスを「仕方ない」と呆れ笑っていたのと、同一人物とは思えませんよ。

「あの、その、どのあたり、聞いてらっしゃい、ました?」
「全部」

 間髪入れずに返された短い言葉。ついで、はぁと重々しくため息をつかれ、全身が跳ねました。
 さすがの師匠も、本気で呆れちゃったのでしょうか。閉まったはずの涙腺が、再び緩んできます。折角目が覚めて、師匠に見てもらえたのに。見てもらえたけど、醜い嫉妬を知られたくなくって、自分から突き放したのに。全部、ぱぁです。おじゃんです。

「あにむちゃ、なかにゃいでぇ」
「こら、ありゅじ! あにみゅを、いじめちゃダメぞ!」

 お腹が冷たかったのか。私の涙に気がついた二人が、体を離して目元を舐めてくれます。ちょっとざらっとした、猫特有の感触です。その上に、二人の雫がぽろぽろ零れてくるので、いつまで経っても頬は濡れたままです。けれど、どこか幸せな感触に思えました。
 そして、何気に驚きました。師匠の肩を持つ機会が多いフィーニスが、師匠を怒ってる。

「悪い、わるい」

 きょとんとしていると、師匠が頭をかきながら歩み寄ってきました。困ったように眉を垂らして微笑んでいます。
 すみません。私、状況についていけてません。固まったまま、フィーネとフィーニスの背中を撫でるのが精一杯です。

「ほれ。二人とも、ちょっと離れてやらないと、またアニムが窒息するぜ?」
「うにゃ!」

 師匠が「窒息」と言ったのとほぼ同時、フィーネとフィーニスが勢い良く離れていきました。羽を小さめに広げて、ぱたぱたと動かしています。
 垂れ耳をさらに下に向け、しょぼんと項垂れているフィーネとフィーニス。二人の様子に、自然と笑みが浮かんでいきます。
 熱でだるい腕をゆっくりとあげて、二人を抱き寄せました。一度、ぎゅっと強めに抱いて、お腹の上に置きます。指で涙を拭って、全身を撫でると、気持ちよさそうに目を細めてくれました。

「ごめんね、フィーネにフィーニス。顔に乗ってたは、ぜんぜん、怒ってないよ。むしろ、起こしてくれて、ありがとう」

 持ち上げて、小さなお口に唇を寄せます。二人とも嫌がる様子は見せません。むしろ、フィーネは嬉しそうに、私の親指にキスを返してくれました。いつもなら抵抗して尻尾で叩いてくるフィーニスも、恥ずかしそうに毛づくろいをしただけでした。
 ずるいですが、だれかの代わりじゃなく、私を求めてくれる二人に胸が熱くなります。

「オレにまで強がってみせることねぇのに。このあほ弟子」

 師匠が手を伸ばしかけます。けれど、一瞬ためらった後、フィーネとフィーニスの背に指を滑らせました。
 にかっと笑って、二人に「なー?」と同意を求めている師匠。一見すると、いつもの意地悪な笑顔です。けど、顔をあげて向けられた苦笑は、どこか痛々しく感じられました。ただ単に、私を映す鏡になっているのでしょうか。

「ふぃーねとふぃーにすだって、あにむちゃに、あまえちぇほしいのでしゅ!」
「そーか、そーか。小娘と赤ん坊たちの方が、精神年齢的には合いそうだしな」

 師匠は、腕を組んで、何度も頷きました。フィーネの健気な発言をちゃかすように、思わず師匠を睨んでしまいました。
 師匠はわざとらしく「おぉ、こわっ」と身を引きました。

「ふぃーにすは、赤ん坊ないぞ!」

 肩を竦めた師匠の横で、フィーニスが両前足を振り回して抗議しています。小さなおててが強調されて、全く迫力ありません。
 一方、フィーネは怒らず、私の膝の上で丸まって頬を摺り寄せてきました。

「ふぃーねは、あかんぼうでも、いいでしゅ」
「こりゃ、フィーネ! おんし、たった今、甘えて欲しい、ゆうたばかりぞ!」
「どっちもで、いいんでしゅよー」

 フィーニスは行き場のない怒りを発散させるように、くるくる旋回しています。可愛いけど、目を回してしまいそうですよ。
 そんなフィーニスを師匠が捕まえました。抵抗を試みたフィーニスですが、師匠の掌に仰向けにされ、お腹を摩られると気持ちよさそうに糸目になりました。全身を委ねると、うとうと船を漕ぎ出しちゃいました。

「あれ? 二人とも、寝ちゃった」
「フィーネもフィーニスも、ずっと付きっきりで看病してたから、疲れたんだろう。うなされてたアニムを心配して、額のタオル変えたりしてたんだぜ」

 いそいそと洗面器にタオルを浸し、両端を持ち合って、一生懸命絞っている。そんな二人の姿が、容易に想像出来ました。頬が緩んでいくのが、わかりました。嬉しい。
 膝の上で眠りについているフィーネを起こさないよう、そっと撫でてみます。小さな体を、さらに丸めて寝ている姿に、ようやく肩の力が抜けていきました。

「んで、アニム。お前、一体、何の夢見てたんだよ」
「へっ?! えっと、私、寝言、口にしてた?」
「別に」

 何故でしょう。師匠に思い切り疑わしい視線を向けられています。それに、ちょっと拗ねているようにも見えます。
 まさか、カローラさんの魔力を感じ取っていたとかは、ないですよね。いえ、師匠レベルなら有り得ます。
 別に私が悪いわけでもないのに、過去の会話を覗き見た罪悪感から、心臓がばくんばくんと鼓動を大きくしていきます。それに加えて、師匠の顔が近い!
 すやすや気持ちよさそうに寝ているフィーネを抱えているので、ベッドから飛び出して逃げることも適いません。

「あの、ししょー、私、汗臭いから、あまり近寄る、だめ」
「確かに、すげぇ汗だな」

 汗臭いとは言われなかったので、許してあげます。デリカシーのなさは絶好調ですね、師匠。
 師匠は、私の様子などお構いなしです。掌に持っていたフィーニスを横に寝かせると、涼しい顔で私の汗でしんなりとした前髪をかきあげました。

「ちったー顔色が明るくなったな。とりあえず、体拭いて着替えろ。その間に、オレはシーツ交換しておくからさ」
「お風呂、は――」
「風呂は、禁止。明日、熱が下がってたら、入ってもよし」

 師匠の人差し指が、私の額をぐりぐりと押してきます。地味にくる!
 私の変顔がツボにはまったのか、師匠はお腹を抱えて離れました。思い切り頬を膨らませると、師匠は声をあげて笑い出しました。あの楽しそうな顔ったら。大魔法使いの威厳も風格もあったものじゃないです。
 ですが、少年そのものの表情に、目を奪われてしまいました。

「ウィータ様、薬湯(やくとう)とシーツをお持ちしました」
「おぅ。悪いな、ウーヌス。衝立(ついたて)の向こう側に、円卓と椅子も運んでやってくれ」
「かしこまりました」

 あっ、相変わらず気配がありません! 師匠が一番初めに生み出したウーヌスさんは、いつも突然姿を現します。涼しげな目元に萌黄色の髪が特徴の中性的なウーヌスさんは、無駄のない動きで作業を進めていきます。
 私といえば、声が出ないくらい驚いてしまいました。こればかりは、慣れません。
 ぎゅっと師匠の腕を掴むと、師匠は振り返ってくれました。袖を握りしめている手を、軽く撫でてくれます。また、目頭が熱を持ち始めました。

「ほれ。体が汗で冷える前に、さっさと着替えて来い。盗み見したりは、しねぇから」
「ししょー、私――」

 正直、自分でも何を言おうと思ったのか、わかりませんでした。考えがあったわけでもないので、続く言葉なんて出てきません。それでも、師匠に何かを言おうと、唇だけが動きます。
 はっきりしない私を、怪訝な目で見るわけでもなく。師匠は、にやりと口の端をあげました。

「んだよ。体拭くの、手伝って欲しいのか?」
「ちっ違うです! ばかししょー! 大魔法使いなくて、えろ大魔王!」
「そりゃ残念だ」

 すでに立ち上がっている師匠は、大げさに両手をあげました。
 ぼっと、火が出る勢いで染まった私とは正反対、飄々とした仕草が憎々しいです。前に乗り出して歯をむき出しにして、威嚇(いかく)してやります。同じ分だけ、師匠は後ろに下がりました。
 一瞬、フィーネとフィーニスがぴくりと動きましたが、耳を撫でると、また寝息を立てます。

「やっと、いつものアニムらしくなったな」
「へ?」

 いつもの私。たった一言が、やけに胸に染みてきました。きっと、他の人からしたら変哲のないフレーズでしょう。
 けれど、今の私には、魔法のような――魔法そのモノな、言葉。師匠が、「私」を見てくれてる。そう実感できる、言葉でした。何度も、口の中で繰り返し呟いてみます。こくんと飲み込むと、ぽっと心があたたかくなりました。じんわりと、全身に染み込んでいきます。

「ん? オレ、可笑しなこと、言ったか?」

 ベッドに片足をつけた師匠が、不思議そうに首を傾げました。私に向けられているアイスブルーの瞳。ランプと暖炉の灯りだけが頼りの薄暗い空間でも、輝きを失わない色。私を弾きつける――この世界に繋ぎ止めている、宝石。
 自分らしくもない、ロマンチックな思考です。けれど、自分らしくない言動でさえ、きっと師匠にかかれば、それが全部私になるのかもしれない。

「アニム?」

 名前を呼ばれ、浮きかけていた手が止まりました。無意識の行動でした。
 師匠の胸に抱かれているフィーネとフィーニスを撫でることで、動揺を誤魔化します。ですが、師匠は不審そうに見下ろしてきました。

「熱で、ぼーとした。はやく、さっぱりしたい」
「あほ弟子が。お前は全部表情に出てるんだよ。お師匠様を、誤魔化そうなんて企みは、一生やめとけ」

 師匠の口が、ぶすりとへの字になっています。ぷらぷらと、私の浅い考えを追い払うように手を振られてしまいました。
 しゅんと項垂れていると、頭頂部に心地の良い重みを感じました。恐る恐る顔を上げると、一転、優しい笑みを浮かべている師匠がいます。
 私の胸は、無責任に高鳴ります。目まぐるしく渦巻く思考をまるっきり無視する心を、思い切り叩いてやりたくなりました。

「とりあえず、話は後でだ」

 フィーネとフィーニスを抱えなおした師匠。右の手を差し出してきます。
 私が戸惑っている間、「腕がつっちまうよ」と愚痴りながらも、我慢強く待ってくれました。
 数回指を屈伸させ、覚悟を決めます。ゆっくりと近づくと、待ってましたと言わんばかりに師匠に引き上げられました。あっという間に足が床に着いていました。
 素足に触れた床は、冷たく、体の熱を奪い取っていきます。ちょうどいいな、なんて思っている傍から、別の熱が流れ込んできてしまいます。

「うん。あとで」

 精一杯の声を絞り出し、返事をすると。ぎゅっと強い調子で、手を握られました。




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