終わったはずの恋と、消えぬ慕情
瞼を開けると、ちょうど転移魔法の光が消えたところだった。
すっかり夜が更けてしまったな。本来ならもう少し早めに水晶の森に戻る予定だったのだが……この姿でアニムに会うのが、どうしても怖かった。
「自分でけじめをつけるって決めたのになぁ。情けないな、俺。ルシオラにどやされちまう」
魔方陣と月が煌いている夜空を見上げてみても、心はどうにも上に向いてはくれない。しかも、ここはアニムの部屋のテラス下じゃないか。
すっと首筋を撫でた風に、身が震えた。
どうにもすーすーしている首。が、服は普段水晶の森で纏っていたものより、断然露出が少ない。そのおかげか、寒さは一瞬で引いていった。
「いまさらながら、反応が怖いな。ウィータが不機嫌になるのはともかく、アニムに距離を置かれないかが」
水晶の地面は、月明かりを浴びて目に痛くない程度に光っている。足元に写った自分の姿に、溜息が落ちてしまう。
今の俺は、アニムちゃんが見慣れているラスターの姿ではない。百年前、アニムに強引に迫ったラス――男性の姿だ。
一度だけ、アニムちゃんにも男装は見せた機会はあった。けれどと、自分の胸に掌を当てる。
「今回は正真正銘、男だもんな」
アニムの中では……百年前、別れ際に交わした言葉で、すでに決着がついている気持ちなのは百も承知だ。
だが、それはあくまでもラスとアニム。俺とアニムちゃんではない。
「俺はもう一度、この恋を終わらせないといけない」
覚悟を決めた台詞をはいてみても、弾む心音は静まってはくれない。
溜息と同時に鳴った、きぃっという軋み音にさえびくりと肩が跳ねてしまった。
「ししょーとラスターさん、まだかなぁ」
頭上から零れ落ちてきたのは、耳に甘い音だった。
ふっきりに行くというのに、アニムが独り言で自分の名を呼んだことに全身が熱くなっていく。なんて卑怯なタイミングなんだろう。
早く。一刻も早く、胸にあるくすぶった想いを消してしまえと言われているみたいだ。
「わかってる。これはアニムが与えてくれた機会なんだ」
軋む胸を掴んで、浮遊魔法を発動する。浮上していく体が、やけに重い気がした。
男性ものの魔法衣、その長い裾がふわりふわりと頼りなくはためく。
彼女からやや距離をとった場所に着陸する。アニムは目をつぶって、夜の澄んだ空気を堪能していた。
「アニム」
「おわっ?!」
できる限り、驚かせないように囁いたのが逆効果だった。アニムは飛び上がってしまった。
俺の姿を認識した途端、きゅっと両の手を胸の前で握った。
「驚かせてごめん、アニム。俺だよ、ラスター」
「らっらっラスターさん?! え、っえ。ラス?!」
ほらまた、たちが悪い。警戒オーラびんびんだったのに、俺だと伝えた次の瞬間には、もう肩の力が抜けたじゃないか。
しかも、躊躇なく俺の方へと小走りに近づいてくる。
「ははっ。そうだな。この姿の時は、ラスって呼ばれてたもんな」
あぁ。俺がウィータだったなら、柔らかい体と優しい香りをこの両腕に抱きとめられるのに。
俺はウィータじゃない。
だから、抱きしめるどころか手首をとれば、彼女の表情が凍りつくのなんてわかりきっている。わざとらしく、手摺に背を預けアニムにひらひらと手を振ってみせる。
「ラスターさん、結界内で男性になる、ししょーに、禁止されてた、違う――じゃなくて、違いましたか?」
俺の隣に並んだアニム。小首を傾げたまま顔を覗き込まれて、喉がきゅっと絞まった。
「うん、まぁな。ウィータの奴も余裕ができたんじゃないか?」
「余裕、ですか?」
「そっ。アニムがウィータの傍にいるって決めたし、過去で俺が振られた訳だから」
にやりと笑って、今度は俺がアニムを覗き込む。
たっぷり数秒たってから、アニムは真っ赤になったり青くなったりしながら意味を成さない言葉を発し始めた。ばたばたと空気をきる仕草に、冷たい空気さえ熱を持っていく。ついつい、腹を抱えてしまう。
「ははっ! アニム、面白すぎ! つか、可愛すぎだ」
「もうっ! ラスターさんてば、ラスの時は、私のからかい方、意地悪!」
ぷいっと横を向いたアニムは怒っている。が、体を包むストールをぎゅっと握っている指さえ、可愛い。
ウィータなら愛しさに悶えつつも、薄いワンピースじゃ風邪を引くなんて悪態つきつつ、体温をわけてあげられるのに。
いや、よそう。ただただ、愛しくて、目元が緩んでしまうのに他意なんてない。
大丈夫だ、ラス。この気持ちはきっと慕情ではなく親愛だ。
「ごめん、ごめん。ウィータがアニムをからかいたくなる気持ち、わかるなってさ」
「大体、変顔いう意味の、かわいいでしょ」
じとっとした眼差しを向けていたアニムなのに。すぐに、へらりと頬を緩めた。
「どうして笑ってんの? もう怒ってないのか?」
「まだ拗ねてるよ? でも、ラスが、あまりにも楽しそう、笑ってるから、つられちゃった」
アニムは口元に手をあて、ころころと笑う。
ふわりと。結わえてない豊かな髪が風に舞う。夜目にもわかる、ほんのり色づいた頬と唇。そこが呆然としている俺の名を不安げに紡いで――。
「――っ!」
かっと全身が熱くなっていく! やばい、やばい、やばい!
おい! なんだこれ! 体が男になっただけで、こんなにもころっといくものか!? ラス、お前一体いくつだよ! 今までの経験はなんだったんだつーの!
「だー!! もう!!」
頭を抱えて雄たけびをあげたのだって、仕方がないだろう。
ばさばさと、木々から鳥が逃げ去っていくのは申し訳なかったが。
「うぇ?!」
アニムがあげた愉快な声にさえ、疼いてしまう。
しくしく泣きたい気分だ。実際、手摺についた腕に額をつけている。
「ごっごめんです。つい気が緩んで、ラスって呼んじゃったうえ、敬語なかったですね!」
焦ったアニムの謝罪に、ばっと顔があがった。
アニムが申し訳なさそうに目を伏せてしまっている。
反射的に手が伸びて……頬を掠める数センチで魔法をかけられたみたいに動きが止まった。止められた。握り締めた指が痛い。
痛みが彼女に触れられないからなのか。はたまた、安心している意気地のなさになのかに、やるせなくなった。
「アニム」
竦められているアニム肩を軽く叩いた。それだけでも、触れた部分が焼けそうに熱い。
「ごめんな、違うんだよ。こーんな可愛い恋人がいるウィータのやつめー! って唸っただけだよ」
「また! かっカワイイとか!」
「ほんと、ほんと。俺、口調は軽いけど本気だぜ?」
うっすらとしか覚えていないけれど。百年前、アニムに同じようなことを言った記憶がある。
つい数日前に過去を体験したばかりの彼女はすぐにぴんときたらしい。ぽかんとした後、「あはっ、ほんとにラスだ」と笑い転げだした。
「おぅ! 『アニムちゃん』に『ラスターさん』って慕われるのも好きだ。つっても、もう解禁てことで、『アニム』に『ラス』として接してもらいたいんだよな。本来の俺っつーの?」
警戒心なく、女性同士として接して気を許して貰えるのに不満があるわけじゃない。むしろ、同性の相談者としてなら彼女の近くにあれるのだろう。
であっても、せめて異性として見て欲しいのだ。
男性として出会って叶わなかった恋。そして、女性として見守る立場をとったはずなのに、どうしようもなく沸いてきた感情。
ホーラには「どんな自虐趣味なのですか」と呆れられたが。
「アニムはさ、嫌かもしれないけど」
若い頃と違い、ウィータの百年の努力と葛藤も目の当たりにして適わないと思っていたし、想いが通じ合っていないはずなのに下手な恋人以上の空気を醸し出す二人に割ってはいるつもりがなかったのも本当だ。
あまつさえ、こんな言い方をしてアニムが拒否をしないのも推察がついている。
こみ上げ来た罪悪感。
「悪い。卑怯だ――」
「私は、嬉しい。とはいえ、ラスターさんは、あのね、ブランクいうか、あって、急に、口調とか崩れるは、嫌ない?」
アニムは柔らかに微笑んだ。直後、わたわたと踊った両手。
あぁ。諦められるはずがないんだ。俺の目の前にいるのは、百年前、恋に落ちたアニムそのものだから。あの時出会ったのは、君だったんだから。
想いが再燃するのなんて当たり前だ。俺が君に惚れた条件、なにもかもが同じなんだ。
「嫌じゃない。嫌なわけが、ないんだ。だって、俺はだれよりも君の近くにありたかった」
百年前のあの時、偶然拾った女の子。最初はただ、可愛いとか物珍しい純粋な空気に惹かれた。
その後、扉を開けた瞬間、目があった君に吸い込まれた。外見だけじゃなくて、目を覚ましたアニムの強さとあやうさに心を揺さぶられた。俺が守りたいと思った。この子の想いが、欲しいと思った。でもな、その欲した想いっていうのは――。
「わかってたんだ。俺が惚れたアニムは、師匠に惚れているアニムだったって。この世界に寄り添うか、故郷に戻るか。ウィータのために必死になっているアニムだったって」
そう、理解はしていたんだ。俺は羨ましかったんだ。師匠とアニムが。そして、言葉に表せない関係を築いていく、ウィータとアニムが。
アニムはまっすぐに俺を見上げてくる。逸らされない視線。
ぎゅっと。強くアニムの両手を握っても、彼女は逃げたりしない。むしろ、そっと、優しく手を添えられた。怖い。いや、この子は俺が怖くないのか?
「アニムの中ではさ、過去できっぱり振ってくれたので終わったのかもしれないけどさ。俺だって、師匠っていうウィータと同じだったんだ」
「同じ?」
「あぁ。アニムだけじゃなくって、目の前の君に惹かれたんだ。ただただ、君が好きになっていった。アニムちゃんを。でも――」
零れ落ちた涙は、間違いなく自分のためのもの。情けなくて、小さい自分が嫌いだって言う嘆き。
彼女を現代に引き戻す立場に立って、痛感したウィータと俺の違い。決定的な想いの重さの異なりを突きつけられた。
「ウィータはさ。アニムを想っていたけれど、君と一緒にしたりはしなかった。あいつだけは、目の前の君を見ていたんだ。『君』に恋に落ちていた。君と一緒にいるために必死になっていたんだ。反して、他の俺たちは――ラスターは、ずっとアニムと師匠の行く末を見てた。ごめん」
ひどい奴だ。『アニムちゃん』を見ているようで、俺は話の結末だけを考えていた。目の前にいる君をないがしろにしていた。
そんな俺が、君が好きだったなんて告げて振られる資格もない。
「そんなの、ないですよ?」
流れる雫を拭ってくれたのは、他のだれでもなくアニムだった。
優しくしないで。今夜ばかりは冗談を口に出来ないんだ。
「違わないんだ。だって、俺は君が『アニム』になっていくのが嬉しかった。可笑しいだろ? 君がウィータを好きになっていく度、惚気る度、嫉妬するんじゃなくて、安心して君に惹かれていったんだ。ごめん、ほんとにごめん。なのに、君が好きなんだ。やっぱり、好きなんだ」
涙混じりなんて格好悪い。桁が違う年下の女の子に縋り付くのだって、鼻で笑われる姿だ。
沈黙が漂う。
ほつりと、頭に触れた冷たさに空を見上げた。さっきまでは晴れ渡っていた空が、雪を降らせ始めていた。
アニムが冷えてはと、おちゃらけようと口を開きかけて……息が止まった。
まっすぐに向けられていた瞳に、泣きたくなった。吸い込まれる瞳。あたたかい闇色。
「ラス。私ね、ししょーが、大好き。だから、ラスの気持ちには、応えられない」
覚悟していた答えだ。いや、望んでいたと表現しても間違いではないだろう。だって、俺はウィータに恋するアニムに惚れた、どうしようもない奴だ。
「わかって――」
投げやりに出した声は、ぎゅっと握られた手に遮られた。
「私、難しいのは、考えられないけど。百年前にも、伝えたけど。ラスの想いは、すごく嬉しかった。ラスターさんが、私、想ってくれたのも、すごく幸せ。二人、いてくれたから、今の私とししょーいるの」
アニムが切羽詰まった様子で詰め寄ってくる。伝わってくる。言葉は拙くても、彼女が俺に向き合おうとしてくれるのが。時として、言葉よりも瞳が、空気が語る。
決して誤魔化すことのない彼女に、心が叫びをあげる。
お願いだ。これ以上、俺にどうしようもない想いを自覚させないで。
「ラスが、ラスターさんがいてくれたから、今のアニムがあるの。だからね、すごく、ひどい自覚ある。ラスが抱いてくれた想い、なかったことに、して欲しくない。ううん。ラスがなかったことにしてもね、私の奥、あったかいとこには、ちゃんとある。それを、許して、欲しいの」
呼吸が止まった。
どう表現していいのかわからない。涙が溢れて止まらない。
俺はきっと、これからも君に捕らわれていく。俺は君の仲にあるラスを許すから。どうか、俺が君を思い続けるのも許して欲しい。
「俺、アニムが――アニムちゃんが、好きだった」
嘘だ。過去形じゃない。この瞬間さえ、君への欲が沸いてくる。
無理やりにでも抱いて、滅茶苦茶にしたい。ウィータにはどんな乱れた姿を見せているんだろう。喘いでいるんだろう。よがっているんだろう。強請っているんだろう。甘い声で絶頂を迎えているんだろう。潤んだ瞳を向けているんだ?
毎晩、抱かれている姿を想像するだけで腹の底が痛む。滑らかな肌にどれだけ痕をつけられている? 白い胸はどんな風に形を変えて、どこを掠れば感じるのかとか。汚い妄想で君を汚しそうになる。
「ありがとう。俺と出会ってくれて」
違う。綺麗ごとじゃないんだ。攫ってしまいたい。出会わなければ苦しくならずに済んだのになんて、自分本位な考えに支配される。
けれど、君は俺の邪な欲情などわからないから。ただ、純粋に微笑む。だから、俺も笑うしかない。
「……ありがとう」
アニムの声に、はっと我に返った。
紫を帯びた瞳と見詰め合って数秒。風に靡いた俺の髪を認識した直後、頭上の月よりも大きく瞳を見開いた。君は悟れないほど、人の感情に鈍くはないよな。
誤魔化し気味に、後ろでひとつに結わっている髪をぴんと指で跳ねた。アニムの瞳が満月になった。
「あ、これ? ちょっと伸びすぎてたのと、もう女装メインにしなくていいしな。あと、魔法道具作るのに必要な材料持っている奴と物々交換してきた」
「今日出掛けてた、西の砂漠の主さん、ですねって! そうじゃなくて! 魔法使い、髪は魔力の、源!」
「一番の理由はさ、アニムに再度振られに来たんだ。その準備。アニムに捧げたかったんだ」
にかりと笑って見せれば。アニムは子猫ちゃんたちさながらに、ひょうっと頬を抑えた。
卑怯だとは承知している。が、せめてこんな形で君の心に残るのを許して欲しい。君の心にひっかき傷を作りたい。ひどい男だって非難されても、君の心の片隅にウィータへと抱いたのと同じ、罪悪感を植えつけたいんだ。
「ラス、ラス! ルシオラ、びっくりするよ!」
「あー、あいつにはぶっ飛ばされそうだな。アニムも援護よろしくな」
「がががっがんばる!! ルシオラに抱きついて、ラスにも、短い似合う、力説するよ!」
拳を握って力説するアニム。抱きつくのは俺じゃないのかなんて拗ねたら、彼女はどんな反応をくれるのだろうか。想像するだけで、優しい気持ちになれる。
慌てる彼女の奥。むすりとして、抱いた子猫たちを撫でつつ、水晶の樹の枝に腰掛けている師匠《ウィータ》と目があった。
「ありがとな、ウィータ」
小さく動かした口に、「うっせぇ」と返されて……余計に鼻がつんとしてしまったのは内緒にしておこう。
― おわり ―
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